ヤクザガール・ミサイルハート

 広島といったら原爆とヤクザ。前者については、世界で最初に原子爆弾の攻撃を浴び甚大な被害を出し、今なお苦しむ人たちを大勢生んだ事実が厳然として存在している。後者については映画「仁義なき戦い」で描かれた、広島が舞台となったヤクザたちのど迫力の抗争というイメージに依るところが極めて大きい。

 だから、決してヤクザばかりが広島を代表する存在ではなく、お好み焼きでもカープでも構わないし、それらも含めた広島の象徴と、痛みと悲しみを背後に抱いた原爆とを並べて良いものでもない。けれども終戦から60年以上が過ぎ、「仁義なき戦い」からも30余年が経った今、突出した2つが広島を現すイメージとして並列になってしまっているのも、仕方のないことなのかもしれない。

 だから21世紀の現在に、元長柾木という「仁義なき戦い」の公開以降に生まれた作家が、「ヤクザガール・ミサイルハート」(竹書房、667円)という物語を描いてもそこに何ら原爆を誹る気持ちも、またヤクザを称揚する気持ちもないはずだ。太平洋戦争の末期の新型爆弾が、中空で破裂しないまま静止してしまった結果、戦争状態が終わらないまでも戦闘は終結。そして日本は米国や諸外国ともども、それなりに発展していき物語の舞台となった時代に至る。

 その世界、その時代の広島で行われることになった枢軸国と、連合国と、共産国の会議に合わせて、子供たちだけの会議が行われることになり、アメリカからはアドルファスという名の少年が招待される。広島に来て、街を散策していたアドルファスは、チンピラに絡まれていた少女を助けようとして反撃をくらい、囲まれていたところに現れた、刀をさげた1人の少女の華麗な剣さばきによって救われる。

 顔に喋る入れ墨を入れた少女はアカリという名で、職業はヤクザの鉄砲玉。トップを失い跡目争いのまっただ中にあって本命に挑む対抗の女ボス・古藤怜子の下で働いていた。そんなアカリに興味というか恋心を抱いたアドルファスは、彼女をヤクザの組織から引き離したいと思い、古藤怜子の所へと単身乗り込むが、そんな思いは自分勝手なものでしかないと指摘され、アカリからもよくも恥をかかせたと誹られる。

 それでもアカリへの想いを募らせるアドルファスは、アカリにつきまとい、アカリを更正させようと働きかけ、アカリが古藤怜子と敵対しているヤクザの一派、矢車一族の本拠地へと乗り込んでいった時も、着いていっては足手まといになってアカリを困らせる。

 なにしろ矢車一族は、世界に開いた異境への通路を経て取り入れた謎めいた技術を使い、肉体に改造を施した超人たちだけで固められた集団。卓越した剣の腕だけで挑むアカリでは適わないところもあった。その上に、戦いだけが使命だと信じ込んだ彼女の心に忍び込んだアドルファスの存在が、鉄砲玉よりさらに強力な、これまた異境の技術を取り入れた最終兵器の「ミサイル」へと、改造される決意をしていたアカリを迷わせる。

 権力の座に近づくためには、アカリの類い希なる力が必要な古藤怜子の執念につきまとわれ、一方で大半を殲滅した矢車一族の残党に追われることになるアカリに、果たして幸せな未来は訪れるのか。その出生に新たな謎が加わったアドルファスの将来は。爆弾を上空に抱きながら凍結された時間の行方とも相まって、より壮絶にして壮大な戦いが予見される続刊に、否が応でも期待が高まる。

 戦闘の最初に出てくる雑魚はともかく、矢車一族でも強力無比の力を備えた中ボスからラスボスといった面子ですら、手にした刀でバッタバッタと切り伏せていくアカリの強さがとにかく際だつ戦闘シーンの迫力に喝采。残しておけば物語のスパイスになりそうなキャラクターであっても、容赦なく退場させていくところは、映画「キル・ビル」の前編で、ユマ・サーマン演じるザ・ブライドが、ルーシー・リュー演じるオーレン石井の本拠地へと乗り込み、栗山千明演じるGOGO夕張をあっけなく退場させた潔さに通じる。

 そんな「キル・ビル」を彷彿とさせる、痛快極まりないバトルシーンの畳みかけもなかなかの読みどころ。また、爆発しないまま中空に止まっていると爆弾という設定は、古橋秀之の「ある日、爆弾が落ちてきて」の中に収録された、爆発したエネルギーに閉じこめられた少女が出てき1編にも重なる設定で、今後のSF的でファンタジー的な大どんでん返しの要となりそう。どう使われるのかが楽しみだが、過ちを繰り返す方向にだけは、動いて欲しくないとだけは言っておこう。


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