約束のネバーランド

 畜舎の豚や、牛や、鶏が自分たちはいずれ喰われる身だと知って日々を生きている、とうことはないだろう。そういったことを思考し、自覚するだけの知能を豚も、牛も、鶏も持ってはいない、ということにとりあえずはなっている。けれどももしも豚や、牛や、鶏と意思疎通が可能だったら、喰わないでと人間に訴えるだろうか。そんな訴えを聞いて人間は、分かった喰わないと言ってあげることができるのだろうか。

 それが家畜というものだと理解して、長く豚も、牛も、鶏も喰ってきた人間が今さら、コミュニケーションが可能になったからといって、もう喰わないといってあげられるとは思いづらい。いや、そこは同じ知性のある者と認めて喰わないという判断をする可能性もある。喰おうとしていた相手への優しさというよりも、喰われる相手から放たれる哀しや怒りの感情に苛まれることを良しとしないという、そんな逃げの感情を理由に。

 宇宙人は、あるいは異星人はどうだろう。人間よりも遥かに高次の存在が、人間の知性を認めながらもそれを家畜と認識していて、叫ぼうとも怒ろうともひるまず逃げもしないで喰らう可能性はあるのか否か。あるとしたらそれはどういった心理によるものなのか。所詮は低次の家畜であるという認識。叫ぼうとも哀しもうとも認めるに値しない感情だという理解。そして相手の叫びがたとえ気持ちを揺さぶったとしても、それを超える美味への欲望が上回っている状況。いろいろと考えられるけれど、実際に彼らがどう考えているかは分からない。

 だから逃げるしかない。その孤児院から。白井カイウ原作で出水ぽすか作画による「約束のネバーランド1」(集英社、400円)。ママと慕う優しい女性の下で少年や少女たちは毎日を明るく、そして楽しく暮らしている。毎日のように試験が課せられている厳しさはあるけれど、それで良い点をとれは大好きなママに褒めてもらえると、少女も少年も頑張って試験に臨んでいる。そしていつか外に出る日を夢見ている。

 そう、12歳になるまでに子供たちは里親にもらわれるという形で外へと出て行く。孤児院に置いてある本などから外の知識を得て、そこには幸せがあると信じて、孤児院に暮らす子供たちは外に出る日を待っている。そしてその日もコニーという少女が里親にもらわれることが決まって、仲間たちに見送られて出て行った。でも、大切なぬいぐるみを忘れていってしまい、届けようとしたノーマンとエマの2人は、閉められていた裏口の鍵を開け、夜の門へと近づいてそこで見てしまう。トラックの荷台に横たわったコニーと、周囲を蠢く化け物を。そして知ってしまう。自分たちの立場を。

 食物連鎖の最上位にあると思い混んでいる人間が、実はそうではなかたっという設定の物語には幾つも類例はあるけれど、そうしたシチュエーションを孤児院に閉じ込められ、養われた子供たちに当てはめているというところがひとつ衝撃的。どうしてそんな状況が生まれたのか。出られない柵の外、塀の向こう側はいったいどうなっているのか。そもそもそこは一般的に言われている地球なのか。世界観への興味を煽られる。

 奴隷なり臓器移植のための人身売買という、現実の社会でも起こりえる状況にも通じる設定ながらも、それだったら逃げ出せば官憲なり正義の味方がいて、解放される可能性を信じられるだろう。「約束のネバーランド」の場合、外に出たところで逃げ切れるものなのかがまるで見えない。豚舎や牛舎や鶏舎を逃げ出し野生に帰って家畜たちが生きられる可能性よりも引くそうな生存の可能性に、ひとつのデッドエンドを見てしまう。

 だからといって止まり続ければ運命は同じ。涙を流して訴えたところで、それは豚や、牛や、鶏が人間に向かって請うた時にも増して同情を得られそうもない。いったいどうすれば良い? ギリギリの時間までを孤児院にあって自分の能力を高めながら、虎視眈々と反撃の準備を進めるべきなのか? それで解消され得る問題なのか? 天才とはいいながらも子供に過ぎないノーマンとエマ、そしてレイの3人による葛藤と模索の日々に同情を向けてしまう。子供たちにあって異常なまでに能力が高い3人も、果たしてコニーのような運命を辿る予定だったのか、違う道があったのか。そんな可能性も浮かんで物語における子供たちの位置づけを、いろいろと想像してみたくなる。

 少年向け漫画誌にありながらも衝撃的で残酷な状況を持ち込み、圧倒的な画力で日々を楽しく遊びつつ、けれども迫る危機に怯えつつ勇気を出して挑もうとする子供たちの様々な表情を描いた漫画として今、屈指の作品と言えるだろう。そしてまだ始まったばかりの世界で、見えない未来がいったいどこに通じているかを追っていける楽しみもある。それは悲劇か。それとも新たな希望か。続きを見守りたい。


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