WELL

 生きていたいなら食わなくてはならない。食うためには殺さなくてはならない。動物であっても植物であっても、それは命だ。奪い殺してとりいれなくては、人は生きてはいけない。

 ならばどうして人は生きるのか。なんのために人は生きようとするのか。突き詰めればどうやらひとつ、生きていたいから、というところに集束していく。

 愛が欲しい。快楽に浸りたい。気分上々で過ごしたい。それら感情のすべてが生きていればこそ生まれるもの。得るためには生きていなくてはならない。だから人は生きようとする。奪い、殺し、貪り喰う。

 違う。そんに簡単な話ではないという声もある。人はどうして生きるのか、という命題は人が心を持ち、考える力を得て以来これまで、永遠にも近い時間のなかで問われ続けてきたものだ。なおかつ未だ多くを悩ませ続けている命題だ。

 生きたいから生きるのだと、答えたって構わない。けれどもだったら、生きたいという心は何に依拠するものなのか。答えは見つかりそうにもない。だったら探すしかない。多くの先達の言葉から。あるいは木原音瀬のつむいだ物語「WELL」(蒼竜社、857円)から。

 まずは前半部分にあたる「WELL」という物語から。垣田亮介が目覚めると、そこは自分の屋敷の地下室で、見守っていたのは家政婦の息子ながらも、同じ屋敷に暮らしていた同年の菅原しのぶという青年だった。たずねると、2人で入っていた地下のファストフード店が、とつぜん崩れ落ちて亮介はケガを負ったらしい。

 失神した亮介を屋敷まで運んだのがしのぶだったが、ならばどうして、亮介の部屋ではなく、地下室だったのか。ケガをした脚の痛みをおして亮介が地下室の階段を上がると、そこには屋敷も庭も街もすべてが消え去って、ただだひたすらに白い砂が地平までを埋め尽くしていた。

 いったい何が起こったのか。核爆弾でも落とされたのか。それにしては様子が違う。海外からだって届くラジオは何のノイズも鳴らさず、空からの救援だって訪れる気配がない。鳥すらも飛ばない空を見上げつつ、2人は地下室に貯蔵してあったワインを飲んで糊口をしのぐが、それも長くは続かなかった。

 秩序の崩壊した世界。そして食糧の失われた世界では、当たり前のように弱肉強食の理が台頭して来ていた。亮介としのぶもその理に従わざるを得ず、どこからか流れてきた男たちに地下室を追い出されてしまう。

 行く場所がなくなった2人だったが、幸いにして地下にいて助かった人たちが寄り集まって暮らしてた、駅の地下街へと迎え入れられた。地下街を率いていた田村という男が、生きているならば等しく受け入れるべきだという、博愛的な主義を持っていたからだった。

 もっとも、地下街に暮らす人たちのなかには、食糧の分け前を減らす新参者の当来を歓迎しない者もいた。脚が悪くて働けず、食糧探しも水くみもできない亮介を役立たずの穀潰しと誹る。弱いものは強いものに食われて当然。そんな考えをぶつけられて亮介は苦しむ。

 家政婦の母が仕える屋敷の御曹司という関係から、亮介の下僕のような立場にありながらも、友情をこえた愛情を亮介に抱いていたのぶだけは、亮介を守り抜こうと立ちはだかる。もっとも亮介はそんなしのぶの愛情を疎ましく思って、しのぶを遠ざけようとする。

 オークラ出版の雑誌に短編として発表され、続編を加えて蒼竜社というレーベルから出たこの本が、レーベルならではの特性を見せる部分でもあるが、しかしこれは、船上でも山上でも学園でも戦場でも、現実に存在し得る女人禁制のシチュエーションなら生まれ得ること。レーベルとしての特性におもった無理矢理の展開ではない部分が、なおのこと窮地にあって増す人間の、性というよりは生への欲望を感じさせ、潜む獣性を露わにさせる。

 生きるためには、離れた場所にあるデパートの地下で、豊富な食料品を確保して生きのびているグループを排除すべきと説き、ケガをして動けない亮介に生きている価値はないと噛み付く、伊吹という地下街のサブリーダーの生き方と、奪ってまで生きるべきではないと考えるリーダーの田村の対比から見える、生きるということの難しさ。それは、「WELL」から少し時間が進んだ続編「HOPE」で、より過激な描写を持って読む者の心に迫ってくる。

 食糧が尽きかけた地下街に暮らしていた田村や亮介、しのぶたちは遂に決断を下し、デパートの地下に受け入れて欲しいと頼みに向かう。いくら食糧が豊富とはいえ、多人数が加われば分配が減るのは道理、絶対に受け入れられるはずがないと踏んだ者もいたが、なぜかデパートの地下を率いる男から、受け入れても良いと許可がおりた。

 彼も田村と同じ人道主義者だったのか。それとも何か思惑があってのことか。分からないまでも生きるためには道はひとつと、田村も亮介もしのぶも他の面々も、地下街を出て砂漠を歩きデパート地下へと移住する。初日、期待していた食糧は出ず、住む場所も地表に近いフロアに制限されても、新参者を受け入れる過程の緩和策だと忍従する。

 だが、移住してすぐに天井が崩れ落ちる事故が起こり、地下街から移り住んだ仲間の1人が死んだにも関わらず、デパート地下にいる地下街よりも多い住民は、誰ひとりとして姿を見せなかった。リーダーとサブリーダーの2人だけが、地下街の面々の前に現れ事情を話し、命令を下す。死んだ地下街の人間を、自分たちの流儀で葬りたいから遺体を預けて欲しいと言いだす。

 どこかおかしい。そう感じた地下街の面々がほどなく知ることになる畏るべき事実。生きるということとは何なのか、そして生きるためには何をしても良いのか、といった根元的にして哲学的な命題が、さらに深い苦悩を伴って読む人の前に立ち現れ、巨大な闇となって迫って来る。

 高潔な田村の精神が逡巡し、懊悩する様に人間としての尊厳の素晴らしさを感じないでもない。けれどもそれで生きのびられるほど、破滅した世界は甘くはない。救いの訪れない結末に待ち受ける、災厄を生きのびた人たちの彼らの未来を思えば、身震いは避けられない。いずれ起こる狂乱の祭りを、乗り越えられるのかという不安に苛まれる。

 文明化され、宗教に縛られ、倫理の枠に囚われているように見える人類だが、実際には人の間に貧富の格差は生まれ、国の間にも国力の差が生まれて弱きは衰え、強い者だけが生き残り栄えている。生き残った人たちだけの小さくなった世界ならなおのこと、生きるために殺し、奪い、喰らって当然なのかもしれない。

 それとこれとは話が違う。個としての人間はやはり、知恵を持ち理性を育んだ人間としての尊厳を保つべきなのかもしれない。どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。答えはだから難しい。永遠に出ないかもしれないが、それでも考えるしかないのだ。「WELL」のような物語を読んで、考え続けるしか未来は見えて来ないのだ。

 起こった事態の原因なり、状況なりの詳しい説明がない点が気にかかるといえば気にかかる。もっとも起こってしまった異常に対して起こるリアクションを想起し、描くなかで人間の本質に迫ろうとする物語もSFや純文学には幾つもある。その意味で思考をゆさぶられる文学的な問題作であり、SF的な意欲作。2007年を通して注目されるべき作品えあり、ゴールディングの「蝿の王」にも匹敵する重要さを持った作品。それが「WELL」だと断じたい。


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