weetzie bat
ウイーツィ・バット


 「ヤングアダルト」というジャンルの定義が、どうやら日本とアメリカで違っているようだとは知っていたけど、アメリカの「ヤングアダルト」としてティーンに大ベストセラーとなっている「ウィーツィ・バット」(フランチェスカ・リア・ブロック、金原瑞人・小川美紀訳、東京創元社、980円)を読むと、その違いが改めて違いがよく分かる。

 なるほどランプの精(ジン)が登場し、3つの願いを叶えましょうと主人公に向かって言う、「ヤングアダルト」に定番のファンタジーのようなシチュエーションはある。けれどもそれは本筋とはあんまりリンクしていなくって、ストーリーはもっと別の、ティーンが全般に抱えている悩みをごちゃっと詰め込み主人公に次々と負わせつつ、それでも何とかうまく乗り切らせて最後にシアワエを掴む的展開の、どちらかと言えば「青春小説」に近いノリとなっている。

 まあ昔の「コバルト」は性の告白体験本なんかもあってリアルにティーンの気持ちを反映させたり願望を充足させたりする小説が交じっていたように記憶しているから、むしろその後のファンタジー、SF、耽美なんかが主流となって「ヤングアダルト」と呼ばれるように日本がなっただけなのかもしれない。数を読んだことがないけれど、ファンタジーもSFも抜きにしてセーシュンまっただ中の少年たちの愛を描いた耽美な小説の方が、アメリカで言う「ヤングアダルト」に内容面で近いような気もする。

 さてさて「ウィーツィ・バット」の方は、ハリウッドに住む「白いブロンドをショートカットにして、ピンクのハーレクィンのサングラス、ストロベリー色のリップ、飾りの下がったピアス、ラメイ入りの白いアイシャドー」で装った「けっこうきれいな顔」の少女。ただしインでアンの羽根飾りを被ったりとか、ディズニーのキャラがついた子供用シーツで作ったワンピースを着たりとか、なかなかぶっとんだ所もあるみたい。

 そんあちゃきちゃき少女が出逢った格好良い少年、ダークは髪を真っ黒なモヒカンにして55年型の赤のポンティアックに乗り少女たちからの人気も高いナイスなガイ、だけど不思議と群がるフツーの少女たちには知らん顔で、なぜかウィーツィに声をかけて来る。

 いっしょにライヴに行ったりクラブに行ったりして遊ぶウィーツィとダーク。これがフツーの小説だったらおよそ本の100ページも使ってラブストーリーが描かれた果てに、「ウィーツィは最高の友達」と慚愧に葛藤の念を込めてダークが明かした自分がゲイという事実に、傷つきそれでも立ち直って行くウィーツィ、なんて展開になるんだろうけど、「ってことは、あたしたり、一緒にオトコをゲットしにいけるわね」と即座に返してしまう、それも第1章の15ページまでの間であっさりと描かれプロローグ扱いされてしまうあたりに、アメリカって国ではこういう事態なんて当たり前のことなんだよね、ってな状況がちょっっぴり見える。

 2人で良い男を見つけようってな具合につるみ始めた所に登場するのがさっきの「ランプの精」。少年には彼氏、私にはいい男、そしてずっと暮らせる家の3つを望んだら、まさにそのとおりになってしまってさて、ってなな感じで物語は進んでいく。女優の母と脚本家の父は両親は離婚していて一緒に暮らしているのはゲイのカップル、でもってやがて少女も彼と出逢って紆余曲折の果てに妊娠・出産へと向かい、やっぱりなエイズの問題とかも絡んでくる「現実のアメリカのティーンの問題」を極端なまでに1冊に詰め込んである。

 そのあまりのスピーディーな展開はご都合主義っぽい気もするけれど、まあそれこそが「ヤングアダルト」つまりはティーンが読んで中身を理解して泣いたり感動したりするために書かれた本って意味なのかも。もちろん粋も甘いもかみ分けた恋愛の達人失恋のエキスパートが読んでも、クールでドライな文体で描かれる、アメリカの風俗アメリカの問題をたっぷりと盛り込んだ(固有名詞がちょっと日本人には分かり辛いかも)、恋して愛して失って取り戻してってな物語に、改めて新鮮な驚きと喜びを感じられ、かもしれない。

 ランプの精が現れたら「ひえー!」、ドレスをもらったら「ひえぇぇぇ」、ダークの彼氏が見つかっても自分の彼氏が見つかっても海で彼氏をずぶぬれになっても「ひえー!」と吃驚する(日本語訳の妙味、なんだろうけど)あたりが何とも可愛いウィーツィの、弱気にならずくじけず前向きな姿勢が日本で果たしてどれくらい受け入れられるか。全部で5冊シリーズらしいその1冊目の反響が後の正否にも関わって来るんで、しばらく反響を観察していきたい。次は魔女みたいな暴れん坊のウィーツィの娘が主人公になっているらしいから、ちょっぴり大人になったウィーツィやダークやほかの登場人物たちのその後も含めてちょと楽しみ。


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