ワルプルギスの夜、黒猫とダンスを。

 大人になってから振り返って、子供の頃の自分を見て、どうしてあんな簡単なことが出来なかったんだろうって、思うことって割とある。あるいはどうしてあの言葉が言えなかったんだろうって。

 でも、そんな思いを子供の自分に伝えるのって、絶対に無理だ。人は過去をのぞけないし、未来からも声を受け取れない。だから今を精一杯に頑張るしかない。頑張っていさえすれば、それがその時の限界だったんだって納得できる。

 それでも、ちょっぴりは浮かぶ後悔の念。だから、空想の物語に思いを馳せて、それとは気付かないうちに聡し、導いてくれる存在の登場に胸を踊らせる。古戸マチコの「ワルプルギスの夜、黒猫をダンスを。」(一迅社アイリス)でルナという名の少女が巡り会った奇蹟のような物語に。

 何をやるにも自信なさげ。自分には才能んて絶対にない。そう思いこんでいるルナは、ダンスの余興で脇役を踊ることにすら躊躇しながらも、ダンスに必要なシューズを求めて入った靴屋で、古そうな赤い靴を見かける。

 聞くと店主。さも曰くありげに、大魔女ベファーナが作らせたものだと話したけれど、少女が知るベファーナは昔はやったアニメの主人公。そんなのいるはずがない。だからきっと店主の冗談なのだろうと思いながらも、ルナは靴から目が離せず買ってしまう。

 その帰り道。とつぜん現れた赤いドレスを着て豊満な肢体を持った女の前で気を失い、目覚めると自分がその豊満で肉感的な女性になっていた。

 つきだした胸に張ったお尻にすらりと伸びた手や引き締まった脚。つまりはとてもグラマラス。女性にとって悪くはない肢体ではあったけど、枯れ枝のようだった自分が大人の女性になってしまったことにルナはショックを受ける。

 おまけにそこは普通の世界ではなく、魔女たちが暮らす閉ざされた森。ルナはその世界で最も力を持った大魔女ベファーナとして、住民たちから畏れられえる存在になってしまった。

 これは困った。戻らなきゃ。大魔女なんだから魔法が使える? でもそれはベファーナの力で、自分は魔法を知らない。使えない。

 そこでベファーナが一緒に暮らしていたネズミのネズチューや、猫が人間化した少年ノーチェの助けを借りながら、人間界に戻るために必要なことだと魔女の長老に告げられた、ワルプルギスの夜に黒猫とダンスを踊ることにした。

 凶悪そうで、意地悪そうなベファーナは、外の世界からラジカセだのテレビだの電動車椅子だの拡声器だのを持ち込んで、静かな森の暮らしを壊そうとしている。そう長老はベファーナを非難する。やっぱり自分は鼻つまみ者? いらない存在?

 そんな長老は、けれどもしっかりと電動車椅子に乗って、テレビを楽しんでいたりする。幼い娘をさらってどこかにやってしまったと町民たちは非難するけど、それにもちゃんと理由があった。嫌われ役を買って出ながら、大魔女ベファーナには凶悪さとは違った心があった。幸せになって欲しいと願う気持ちにあふれていた。

 そして人間になったノーチェがベファーナに向ける熱い思い。必要とされ、慕われるベファーナの姿からルナは学ぶ。未来へと目を向けるようになる。

 くるりと舞台が回るように開かされる真相に、導かれるとことの嬉しさと、導く振る舞いの崇高さが見えてくる物語。家電製品に囲まれながら、便利な暮らしに文句を言う長老をはじめ、コミカルな部分もたくさんあって楽しめて、そして浮かび上がってくる自分を見つけ、他人を思う大切さというシリアスなテーマに触れて、生きていく確かさを得られる。

 八百万の神様を目に見られる少女が、神様たちの悩みや、人間たちの問題を解決していく「やおろず」(イースト・プレス、1000円)でも感じられた、前向きの力を持った物語を作る力が存分に発揮された「ワルプルギスの夜、黒猫をダンスを。」。その力が次に何を紡ぎ、そこからどんな力が現れるのかに期待もたっぷりとふくらんでくる。

 それにしても実にグラマラスで美しい大魔女ベファーナ。女性ならなりたい肢体と憧れるはずのものだけれど、ルナは元の自分に返ろうとする。何とももったいない話。それともやなり1歳でも歳を取るのが、女性にとっては重大事という訳か。


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