若き検死官の肖像
PORTRAIT OF A YOUNG CORONER

 椹野道流は「ふしの・みちる」と読む。などという、以前からさまざまなシリーズを読んでいるファンには瞭然なことでも、新しいレーベルでその名前を初めて見て、手にとった人には必要かもしれない情報なので、最初に書いておく。

 問題はどうやったら、ワープロでその漢字を出せるのか、といったところだが、こうして書いたからにはATOKに単語登録して、打てば何度でも出せるようにした。以後、何度も使いたくなるくらいに、椹野道流が「f−Caln文庫」から出した「若き検死官の肖像」(三笠書房、590円)は面白く、続きが気になって、出たら必ず読んでしまうことになるはずだから。

 ホルシャムという都市で長く働いているベテラン検死官のもとで修行して、ようやく資格を取得した新米検死官のサイラス。もっとも、ベテランが健在のその都市では仕事がないため、しばらく前に長く検死官を務めていた人が亡くなり、その赴任した2人の検死官が、なぜかすぐに辞めてしまて今は検死官が不在の、ギルフォード自治区という場所に派遣されることになって、意気軒昂と赴任していく。ところが。

 そのギルフォード自治区には、昔からネクロマンサー、すなわち死んだ人の体を操る術が使える存在がいて、警察や町の人たちに重用されていた。これにはサイラスも驚いた。まずあり得ない。死体は死体。喋るどころか動くはずもない。そんな物言わぬ死体の様子をつぶさに観察して、死んだ時の状況、時には殺された様子を解明するのが検死官の役割だ。だから警察の仕事に必要とされて、共に歩んできた。

 そんな検死官の価値が、存在意義が、ネクロマンサーの登場で一変してしまう。ネクロマンサーがいれば死体から直接、その声を引き出せる。心残りを抱いたまま死んだ人には、家族への遺言を改めて話してもらえるし、殺された人なら、どうやって殺されたのかと、当の被害者自身に語ってもらえる。

 誰が。どうやって。そしてなぜ。全部分かってしまうのに、どうやってとしか分析できない検死官が、どうして必要とされるのか。だからサイラスは慌てた。もとより直情傾向なところがあったサイラスは、尻尾を巻いて引き上げることも、嫌がらせに逃げ出すこともせず、ネクロマンサーの技を実際に見に行って、本当に死体を甦らせている様を見ても、どこかにトリックがあるのではと疑い、検死官としての自分を貫こうとする。

 そして次こそはと、ネクロマンサーの技を再び間近に見に行った現場で、サイラスは大きな困難にぶち当たり、同時にひとつの光明を見る。

 殺害された男の死体。その死体から言葉を聞きだしたヴィンセントという名を持つネクロマンサーによれは、犯人はサイラスが町に居場所を見つけられなかった時、親切にも部屋を貸してくれた薬師の知人だった。ネクロマンサーが間違いを犯すはずはなく、そして死体が偽りを言うこともあり得ない。そう信じ、長くネクロマンサーに頼ってきたギルフォード自治区では、ネクロマンサーの言は絶対で、薬師いの知人はそのまま殺人犯にされそうだった。

 けれども、サイラスには違う見立てがあった。ネクロマンサーが仕掛けをしないか確かめるため、先に死体に触ったサイラスが調べた傷跡を分析すれば、薬師の知人が殺人犯であるはずがなかった。もっとも、いくらそう主張しても警察は動かず、他の人もなかなか信じようとはしない。そんな状況にもサイラスは、持ち前の猪突猛進ぶりを発揮して挑んでいく。ヴィンセントとは幼なじみで、その立場を尊重したい一方で、知人を助けたいと間に挟まり悩む薬師いの助力も借りて突っ走る。

 自分の仕事に誇りがあっても、科学の言葉を否定する訳ではないと理解し、だからこそ死体が嘘を言ってしまっていることを、覆せない自分の非力さに落ち込んで引きこもってしまったヴィンセントを家まで行ってたたき起こし、ネクロマンサーにしかできない方法をとらせようと叱咤しつつ、自分たちも犯人を捜して街を駆け回る。

 郷に入っては郷に従えの風習を守ろうとしない直情径行の検死官の、あまりにも他人を省みず、周囲を気にしな猪突猛進ぶりには時に苛立たされることもあるが、そんな真っ直ぐさがあってこそ、崇められ奉られていたネクロマンサーを刺激して、共に手を組み新しい検視のあり方を模索する方策を導き出せた。突っ走っても引っ込んでも、偉そうでも卑屈でもいけないのだと知ろう。

 科学という絶対的な証拠ありながらも、自白というこれも絶対的になりえる証拠があって、相反する結果を示していた時に、人はいったい何を選びどう判断するべきなのか。自白偏重の犯罪捜査への警鐘にもなりそうな主題を、若き検死官と、こちらも若いネクロマンサーという、相矛盾する要素に反映させ、ぶつけ合うことで示してみせた物語とも言えそうだ。

 それぞれが追っている良さを認め合い、使うことができれば良いのだが、長くギルフォード自治区で信じられていたネクロマンサーと同様に、現在の犯罪捜査でも自白という証拠は未だに大きな意味を持っている。改められるのか。ライトノベルのファン以外の、法曹に関わる人にも読んでもらいたい物語だ。死体がづして偽りの言葉を話したのか。その理由へと迫る探索は、ミステリーとして読んでも楽しめるので、興味が惹かれたなら手にとろう。

 キャラクター的には、かつて貧困でご飯も食べられない生活を送っていて、そこから抜け出そうと師匠に誘われネクロマンサーになって、今は館からあまり外に出られない代わり、料理をするのが趣味になっているネクロマンサーのヴィンセントが醸し出す、純粋さがなかなかに可愛らしい。そんなヴィンセントと、我が強く直情径行だが、間違いはすぐに改め、けれども再び忘れたかのように突っ走っていくサイラスとの、水と油のような関係も面白い。

 椹野道流が時に書くようなジャンルに必須の愛へと変わるのか、それとも多うが手に取るレーベルらしく、友情と切磋琢磨の物語として繰り広げられるのか。いずれにしても先が楽しみなシリーズだ。


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