うつくしいども

 「夜の王子さま」。そんなタイトルの童話をあなたは読んだことがあるだろうか。サン・テグジュペリが書いた「星の王子さま」の決してパロディなんかじゃない。読むほどに寂しくそして哀しい「星の王子様」より何倍も寂しくて哀しくて、ふり絞るような悲嘆とこみ上げてくる慟哭にあふれた童話、それが「夜の王子さま」だ。聞きたいかい? だったら話してあげよう。

 宇宙船の呼称でたったひとり航路をはずれた星に漂着した王子さまがいた。いっさいの生命が存在せずその痕跡もないガラスで覆われたその星で、1年を過ごした王子さまは夜空のかなたに灯を見つけ、わずかに残っていた救命ポッドの液体燃料を頭から被って身に火を着ける。けれども灯に輝いた豪華客船は燃え上がる王子さまに気付くことなく飛び過ぎていってしまった。どう思った? たぶん泣いただろう、自らを燃やしてもなお報われなかった王子さまに、我が身が重なる記憶なり、体験なりを大なり小なり持っているこの世のすべての人たちは。

 自分を見てよ。自分に気付いてよ。それは社会に生きるすべての人間が絶対に逃れ得ることのできない感情だろう。自分を誉めてよ。自分が意味のある存在だって教えてよ。年齢を重ねれば相対のなかで自らを理解する作業にも人間は慣れてまえる。けれども子供は、すべてがゼロから始まり真っ白だった自分を染めて大人になっていこうとしてる子供には、ガラスの星で1人いつまでも暮らし続けることはできない。だから自分に火を着ける。届いて欲しいと聞こえない叫びを響かせる。

 「池袋ウェストゲートパーク」で駅前にたむろする少年たちの社会を荒々しく、けれども瑞々しい筆致で描いて読者の気持ちをホットにしてくれた石田衣良が今度は、ガラスの星に立ちすくんでいる大勢の子供たちに代わって灯となって、強く静かに叫ぶ話を書いた。「うつくしい子ども」(文藝春秋、1524円)。そのタイトルと、水色でナチュラルな装丁からは想像もつかないハードさに全編は充ち、今度は読者の気持ちを戦慄に冷やして震えさす。

 大都会ではまだない、雑木林やたんぼのまだ残るその町に一家は住んでいた。父親と母親と長男、次男、そして妹の5人家族。ニキビがいっぱいで決して美しい顔ではないけれど、長男はその学術研究施設が多い町にある国立大学の付属中学に通って、植物の調査を趣味に日々を過ごしていた。父親は研究施設で残業が多く、母親はしばらく前にテレビCMでちょっとした話題になった妹を、モデルとしてマネジメントすることに忙しい。そして妹がちょっとしたタレント活動を始める前は、母親が可愛がってモデルの仕事もしていた次男は、いまは止めてしまってもっぱら家にこもって1人ホラービデオを見る生活を送っている。

 ある日その町で事件が起こる。9歳の女の子が行方不明となり、しばらくして吊されて上半身を裸にされて乳首を強く噛み抉られた姿で死体となって発見された。死体のそばには「夜の王子」のサイン、そして「これが最後ではない」の文字。新聞記者やテレビクルーが町には溢れてしばしの賑わいを見せるなか、一家の次男がその恐るべき猟奇殺人の犯人として逮捕され、好奇の目の中で一家は離散への岐路に立つ。

 だが長男の三村幹生は逃げずに踏みとどまる道を選ぶ。殺人犯の兄として虐待されるのを覚悟で元から通っていた学校へと戻り、どうして弟が殺人を犯すに至ったかを探ろうと懸命になる。毎日の大半をともに過ごした弟が、けれども自らに火を放って助けを求めた形跡はない。それでいて今は殺人者として社会から非難され隔絶された場所へと送られようとしている。

 「弟はなぜ殺したんだろう?」。弟が「夜の王子」について書いたメモ、そして「ほんとうのぼくは、どこにいる?」と題して書いた文書を読み解き、弟が図書館で読んだ本のリストを並べて思想の一端を探って幹生は少しづつ真実へと進みはじめる。イジメには加わらず幹生を信じて協力を惜しまない友らの手を借りて、遠くガラスで覆われた星で燃え続ける醒めた焔へとたどり着く。そして幹生は知る。寂しく哀しい「夜の王子さま」の誰が語り部だったかを。

 パンパンに膨らんだ体の中にいっぱいの燃料を入れて今にも燃え出しそうな子どもたちの日常に目を見張る。あちらこちらでおそらくは毎日のように燃え出しているだろう子どもたちがいることに胸が痛む。けれどもだったら大人は何をすればいいんだろう? ラストに示される過剰だけれども虚ろな愛情の結末を見ると、いちがいに愛こそがすべてとも思えず解決の糸口の見えなさに頭を悩ませる。

 兄は弟の真実を探ろうと達観するまでに自らの内面を築き上げ、弟は邪悪な焔に内面を焼き尽くされて今は抜け殻となり施設にいる。その違いがだとしたらどこにあったのかを探ることが解決につながる道の1つかもしれない。あるいは殺人者の弟を持った幹生を仲間と信じて共に戦った少年と少女の態度に学び、愛でも嫌悪でもなく1個の人格として子どもを見つめることが必要なのかもしれない。

 答えはなさすぎてありすぎて解らないが、だからこそ考える意味がある。まずはガラスの惑星でひっそりと燃えている灯を探すこと。その燃えているという事実を見つめること。それさえも怠った社会の行き着く先はきっと、「夜の王子さま」すら1日でその身を消し去りたくなる、無限に広がるガラスの宇宙にほかならないのだから。


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