うさぎの映画館

 思い出したくないけれど、思い出さなくてはいけないことがある。

 思い出したくないのは、悲しくて辛かったから。だけどその悲しさと辛さは、大好きだったからこそ生まれたもの。悲しいから、辛いからといってずっと思い出さないでいると、大好きだった思い出までもが、記憶の彼方に埋もれてしまう。

 だから思い出さなくてはいけない。好きだったことをずっと覚えているために。辛さや悲しさを乗り越え前に歩み出すために。

 殿先菜生の「うさぎの映画館」(メディアワークス、550円)に描かれるのも、そんな辛くて悲しい思い出と対峙し、乗り越えていく少女の姿だ。静流という名の少女は、よく夢に商店街を見る。人通りのまるでない商店街を抜けるとそこには映画館があって、うさぎのぬいぐるみの「はーさん」が、受付窓の向こうに座っている。

 その日も、いつもと同じ夢を見ていた静流が、アルバイトしていた骨董店の「銀河堂」のカウンターで目覚めると、どこかで見たことがあるよな顔をした少年がいて、買い取って欲しいものがあると告げた。静流は、昔から自分の面倒を見てくれていた店主の鳴海さんを呼び出して、少年の祖父が遺したという古い品々を引き取り、その中から割れた手鏡をもらいうける。

 後日、学校で静流は少年が雲井進という名前で、同じ学校に通う同級生だったことに気づいて、言葉を交わすようになる。その時はまだ、学校で見かけたことのある同級生だったから、進は静流のことを見て表情を変えたのだと静流は思っていた。けれどもやがて、もっと別の理由があったことを知る。そして静流は押さえ込んでいた辛い、けれども大切な記憶の奥へと分け入る。

 骨董店に預けてあった鏡台から、幽霊が現れる話が交えられていて、何やらミステリアスな雰囲気が醸し出されたり、少女がもらった手鏡から髪の毛が出てきて、それがどうやって切り取られたかが夢の中に現れる、ファンタジックな描写もあるにはある。けれども、そこから異世界だの異能の力だのといった、超自然的なシチュエーションへと静流や進が誘われることはない。

 鏡から現れる幽霊にも、アリス自身が作り込まれていない「不思議の国のアリス」をモチーフにしたランプにも、合理的な説明がなされているところから、米澤穂信や日向まさみちが書く、青春ミステリーに近い雰囲気を感じ取る読者もいそう。提示される謎に対し、どんな解決が与えられるのかを考え、答えに感嘆する楽しみ方も出来る。

 けれども、この物語で本当に読んでもらいたい所は、少女が見る夢の真相だ。

 骨董店で出会った進との間に交わされていた思い出が、静流の心の中にだんだんと浮かび上がって来る。静流が心の奥底にしまい込んでいた記憶が蘇り、ずっと止まったままだった時計の針を動かす。立ちすくみながら夢の中の映画館を幾度となく訪ねては、戻る繰り返しだった静流の気持ちを、前へと向かわせ解放へと導く。

 ちょっぴりの不思議さも交えつつ、日常を懸命に生きる人たちが、心に背負った様々な事柄に想いに気づき、どうにかして呑み込みあるいは乗り越えようとする物語。それが、同じようにどうしていいのか分からない、複雑で悲しくて辛い想いを抱く人たちの気持ちを解きほぐす。その流れ、その雰囲気は、同じ電撃文庫で橋本紡が書いた「毛布お化けと金曜日の階段」に近い。

 だからなのだろう、「うさぎの映画館」の帯に掲載されている推薦の言葉を書いているのが橋本紡。「電撃文庫の幅を広げる作品である。殿先菜先には、その先に進んで欲しい。瑕と光を持っている人だから」という言葉からも、作品が持つ前向きの力が感じ取れる。そして読めば誰しもが、辛くても、悲しくても立ち止まらずに進む希望を見いだせる。

 「幅を広げる作品」という言葉のとおり、異能の持ち主が戦い見えるジャンルが多いレーベルにあって、異端と言われそうな物語だが、それを認め受け入れ刊行することに躊躇わないところも、またこのレーベルの特質であり美徳。かつて後発ならではの貪欲さで新しい作家を発掘し、新しい傾向の作品を世に送り出し続けているうちに、先頭に躍り出てしまった。

 だからといってそこに安住せず、さらに前へと突き進む決意が、この作品の刊行に意味されているのかもしれない。内容としても、存在としても革新的で意欲的。その点からも大きな意義と意味を持つ作品と言えそうだ。


積ん読パラダイスへ戻る