兎が二匹 1・2

 誰かを喪うことの悲しみから人は、自らが喪われることでしか逃れられない。そして、自らを喪って誰かを喪った哀しみから逃れられたとしても、違う誰かが同じような哀しみを抱いて涙する。人間の歴史はそんな離別の哀しみによって紡がれてきた。そしてこれからも紡がれ続けていくだろう。

 それでも人なら、自らを喪うことで、自らが生涯において得た哀しみは捨てられる。もしも自らを喪えなければ、人は繰り返される誰かを喪う哀しみを心に積み上げて、やがてその重みに耐えきれなくなってしまうだろう。

 不老不死。寿命ある人間なら、誰だって憧れる存在だけれど、なってみて永遠に繰り返される離別に、心を折らないで生き続けられるのかと問われ、大丈夫だと答えられる人はきっと多くはない。

 永遠に生き続けられるのなら、誰かと出逢う喜びも永遠に繰り返されると言えば言えるだろう。けれども、そんなたくさんの出逢いは、いずれすべてがたくさんの離別へと変わり、新たな哀しみの種へと転じて、心を苛んでいく。

 不老不死。その牢獄にとらえられた人に幸福への扉は開かれないのか。そもそも不老不死にとって幸福とは何なのか。

 そんな問いへの答を、もしかしたら与えてくれているかもしれない物語が、山うたによる漫画作品「兎が二匹」(新潮社、1・2、各600円)だ。冒頭、骨董店の2階で19歳の宇佐見咲朗という青年が、女性を泣きながら絞め殺している場面が描かれる。涙と血を流して息絶えた女性に向かって、咲朗は泣き叫ぶ。そこで女性ががばっと起き上がる。

 稲葉すず。398歳。不老不死の彼女は、まだ子供だったこと、飢饉に襲われた村で口減らしのために殺されて埋められながらも生き返った。以来、江戸時代を経て明治期を過ぎ大正期も超えて現代までずっと生き続けてきた。

 日課にしているのが自殺。同居している咲朗に1日1回、殺してもらっていたけれど、何しろ不老不死だからすぐに生き返る。首を絞められても、首を切り離されても生き返ってしまう自分の命にいケリを着けようと、すずは国際的なテロの犯人だと名乗り出て死刑にしてもらい、それでも生き返ってしまうことから焼かれ灰になったところをコンクリートで固められ、バラバラにされて空から海へと流されることになった。

 そして1年後、蘇って海岸へと流れ着いたすずは、前に暮らしていた街へと戻って咲朗がその後、どうなったのかを知る。知って涙を流す。

 突きつけられたのは誰かにとって自分が喪われることの哀しみ。永劫とも言える時間の中で、自分の心を幾度となく苛んできたその感情を、自分から誰かに与えてしまったことにすずは、初めてに近い驚きと、憤りと、そして哀しみを覚えたに違いない。

 誰かから哀しみを与え続けられることに疲れ、誰かに喜びを与え続ける喜びを忘れてしまった悲劇。不老不死の女性を通してそのことを思い知らされ、人はだからどう生きれば良いのだろうかと改めて考えさせてくれた物語は、そして過去へと遡って、すずが喪い続けてきた哀しみが描かれ、理不尽な事態によって人の命が散っていったことへの慟哭に溢れる。

 けれども、そんな慟哭に寄り添ってすずを支え、包み込もとうする大きな体があったことも、改めて示される。ネグレクトされた少年を拾い、食事を与えて世話をしているうちに芽生えた情が、母親のような慈しみから姉のような親しみへと変わり、そして恋人のような関係へと育っていく。すずにとって、かけがえのない存在になっていく。

 そこで逃げようとしたすずの振る舞いが、1日1回の咲朗による“他殺”という名目の自殺となり、そして冤罪を被っての死刑へとつながり、彼女に激しい後悔をもたらす。400年近く生きていて、もしかしたら初めて感じたかもしれない自分を喪わせる哀しみを噛みしめながら、すずはそこからの生を歩み始める。

 すずを長く観察して来た科学者の言を受けて抱いた、一縷の望みもこれからのすずの生にとって、大きな糧となるだろう。もしも本当だったら。そして得られたら。不老不死にとって最高の幸福が、そこには待っていると言えそうだ。

 もしそうでなくても、自らを喪わせる哀しみを、誰かに抱かせる残酷さを知ったことで、すずのこれからの生には、離別という哀しみに苛まれ、すべてから逃げていたこれまでとは違った、強い力が宿ることになるだろう。

 出逢いという喜びを多くに与え続け、そして与えられ続けるために歩んでいく。そんな力が。

 限りある生を生きる多くの者たちは、読んで離別の哀しみを超えた出逢いの喜びを繋げ続けることが、人間の歴史なのだと思え。永遠の生を生きている者がいたら、読んで今の出逢いを極限の幸福と感じ、それが理不尽に喪われることのない世界を目指して生き続けろ。


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