インターネット中毒者の告白


 はやりすたりの激しい昨今、言葉すらも数カ月のうちに使い捨てられていく運命にある。今、全盛なのが「ストーカー」。昔だったら「逆恨み」とか「痴情のもつれ」とか「ふられた腹いせ」とかって惹句が付けられていた行為が、すべて「ストーカー」という言葉でひっくくられて語られている。なぜって「ストーカー」というだけで新聞の見出しは2段分(当社比)増えるし、新聞の見出しに「ストーカー」って付くだけで、みんなの注目は5倍増し(当社比)になるからね。

 「インターネット」という言葉も、少し前までは黄金の輝きを放つ言葉だった。例えば「インターネットにホームページを開設しました」、あるいは「全社員にメールアドレスを持たせました」等々。これだけで新聞の見出しは確実に1段上がった。今では毎日のように届く「ホームページを開設しました」リリースを、ぐへっとゲップした後で未決の墓場へと放り込んでいる。

 もっとも同じインターネットだからといって、「インターネット中毒」はその扱いが大きく変わってくる。「インターネット中毒」はこれからの言葉だ。「ストーカー」に続いてマスコミがいままさに飛びつつこうとしていて、しゃぶり尽くそうとしている言葉だ。

 どんな風に消費されるかは、マスコミの辺境にいても容易に想像がつく。いわく「インターネット中毒者、孤独のまま餓死」、いわく「インターネット中毒者、通信費欲しさ恐喝」。気高い理想でも猥雑な好奇心でもいいから、とにかく自由なメディアを求めてネットに耽溺している人たちの高邁な(あるいは通俗な)精神が、彼らの意思の及ばない、けれども甚大な影響力を保持し続けているリアル世界のメディアによって、歪められ広められしゃぶり尽くされて燃やし尽くされる。

 J・C・ハーツの書いた「インターネット中毒者の告白」(大森望・柳下毅一郎訳、草思社、1957円)の刊行は、つねに網を張って新しい玩具を待ち続けているマスコミの卑俗な好奇心に、飛んで火にいるがごとく引っかかることだろう。中身などどうだっていい。タイトルにある「インターネット中毒」という言葉だけが、マスコミの好奇心を刺激して興味をかき立て、拡大再生産されていくことになるだろう。

 それが狙いで、つまりはマスコミの好奇心を刺激せんがために「SURFING ON THE INTERNET a nethead adventures onkinde」という原題を意訳して、「インターネット中毒者の告白」という邦題を付けたのだとしたら、間違いなく成功するだろうと断言しよう。

 ただし、踊らされるマスコミといっしょに、読者までもが踊る必要などまったくない。マスコミの騒ぎなどはグラビアでウインクを投げかける美女程度の存在だと割り切って、中に書かれてある特集記事やコラムや漫画(つまりは本文)を読み、そして考えることが肝要だ。おそらくはネガティブな印象しか抱き得ないマスコミの「インターネット中毒」という言葉への認識が、読者の段階ではもっと切実な、そして身近な、さらには夢のある言葉となって映ってくるはずだ。

 J・C・ハーツはハーバード大学時代にインターネットにハマった。最初のイメージとしてはそう、ニフティのフォーラムのチャットにハマって、日夜ネットにアクセスして、何時間もチャットに耽溺している女子大生といった感じだろう。夕方になってごそごそと起き出して、珈琲をドリップしてジャンクフードを身近に置いてから、時間が過ぎるのも忘れてネットの中の「世界」と対峙する。気が付いたら世が白み始める寸前。ネットから抜けてベッドに入り、夕方起き出してまた昨日と同じ1日が始まる。

 やがてハーツはインターネットの上に巨大な「迷宮」を見つけ、迷い込んだまま出られなくなる。MUD(マルチ・ユーザー・ダンジョン)と呼ばれるテキストだけで構築されたバーチャル・リアリティーの世界の面白さは、グラフィック・ベースの「ハビタット」のような世界を目にした身は今ひとつ理解しがたい。しかし漫画を読んで情報を視覚的に伝えられるのとは違った面白さ、すなわち活字によって世界を想像(そして創造)していく読書の面白さを考えた時に、活字によって世界が規定され、活字を並べることによって行動や意思を表していくMUDには、なんだか「知的好奇心」(漫画読みが知的ではないと言うのではない。あくまでも通俗的価値観に基づく序列だとお断りしておく)を刺激される。

 世界レベルの口(述筆記)喧嘩である「フレイム戦争」を経験し、「ネットおかま」に「ネット伝説」に「仮想性交」との邂逅を経て、作者のJ・C・ハーツがたどり着いた地平。それは「これ以上深く追求できるとは思えなくなってしまった。もうこれ以上新しいことはなくて、あとはこれまでやってきたことがらさに、さらに、さらにたくさんあるだけだ。今となってはどこへ言っても二度目のトリップ」(292ページ)という感覚だったらしい。飽きちゃった。もううんざり。リストカット。「NO CARRIER」・・・・。お帰りなさい。「オフライン」の「リアル」な世界へ。

 なんだこの程度。「ニフティサーブ」や「PC−VAN」のチャットにハマってる奴の方がもっとすごいよって、そんな声が返ってくるかもしれない。OK! その意見には素直に賛成しよう。日本では「ネット中毒」の問題は何度も何度も語られて来た。しかしマスコミは、「ネット中毒」を流行語大賞にノミネートされるようなメジャーな言葉にしようとはしなかった。パソコン通信なんてマイナーなものに過ぎないと、そう考えて見過ごしていた。

 J・C・ハーツ「インターネット中毒者の告白」は、パソコン通信について書かれた幾百幾千もの書物にも増して、強い影響力や破壊力を持っている。それは1つには、作者が「女性」であり「ハーバード大学卒業生」であり、舞台が「インターネット」だからだろう。ジェンダーと学歴とテクノロジー、そしてちょっぴりアウトローがかったモティーフは、常にマスコミの好奇心をあおり立てる。

 けれどもJ・C・ハーツの言葉は、卑俗な好奇心を越えて広く響きわたる要素を持っている。いや、広く響きわたらせなくてはならない警句を含んでいる。「新入りいじめ」の項、インターネットの商業利用をもくろんで、企業広告をネット上にバラ蒔こうとしている企業に対して、ネット者たちが激しい嫌悪感を抱いていることを読んでなお、ダイレクトEメールを送り続けられる企業があるとしたら、よほどの鈍感か傲慢であろう。

 あるいは「USENETニュース虫はCIRCジャンキーを見下しそれはさらにMUDヘッズを蔑みそいつらは自分よりもMUDする連中をバカにする」(284ページ)という言葉から、下には下があると思い、自己を正当化したがる人間の普遍的な心理(それは差別へとつながる)を汲み出してみてもいい。もっとも真にハマった人間には、自分こそが正当であり頂点であると思いたがる面もあるから始末に負えないのだが。

 ともかくも今まさに読まれるべき本が出た。決して「インターネット」が善意に満ちた天国、黄金に溢れたエルドラドとは言わないが、だからといって「インターネット」は、悪意に満ちた地獄のような世界ではない。結局は使う側の意思と決意にかかっている。マスコミの片鱗に位置する者として言えることは1つ。あなたが読んで、見て、判断して欲しい。それだけだ。


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