Type:STEELY 上・下

 ソウルジェムという、宝石のようなものが中できらめくガラスの小瓶が、身から遠ざかって発生したある出来事に、魔法少女たちは、自分たちに起こっている事態の真相を知って、戦慄した。「ゾンビにされたようなもんじゃないか!」と叫んだ者もいた。

 その方が、安全だからという理由では、納得できない感情はいったい、どこからわいてくるのか。魂と肉体。それらが、ひとつに重なって存在する時にのみ、人は自分を自分だと認めて、安心できるものなのだろう。魂だけが切り離され、神棚のようなところに安置され、肉体をリモコンで操っている、そんな感覚を、だから人は許せないし、認められないのかもしれない。

 世界大戦の遺物として現れた、マイクロマシンが機械を寄せ集めて作り上げる怪物、アトロハードと人間との戦いが、もう何十年も続いている日本が舞台となった、片理誠の「Type:STEELY 上」と「Type:STEELY 下」(幻狼ファンタジアノベルズ、各900円)。そこに登場して、人類の切り札と目されている有機系生体ロボットのスティーリィにも、そんな、魔法少女たちに似た葛藤が付きまとう。

 中学校を出たら、誰もがドームで覆われた都市を守って戦う仕事に、携わることが決められている社会。新堂善騎の場合は、検査によって適正があると認められ、スティーリィになることを強要された。断れば、都市に不要な存在として、アトロハードが跋扈するドームの外に放逐されるだけ。否応なく善騎は、スティーリィ化の手術を受けた。

 スティーリイになる。それは、3メートル近い巨人のボディに脳を移植し、戦場の最前線へと出ていっては、巨人ならではの強靭なパワーを繰り出し、巨大な銃器を自在に操って、アトロハードと戦う兵士になることを意味する。脳を摘出された肉体には、受信装置が入れられて、スティーリィに入っている脳から、感覚を移すことができる。そうやって、日常生活を送っている姿は、傍目には、前のままの人間に見える。けれども、当人たちには、微妙な遅れが感じられ、そのもどかしさから、自分に起こっている事態の不気味さを、噛みしめさせられる。

 スティーリィが損傷を受けても、脳の入ったカプセルだけを取り出し、生命維持装置が働いている段階で、ドーム都市へと持ち帰れば、新たに作られるスティーリィのボディへと戻して、戦いの場へと復帰できる。戦争が終われば、元の肉体へと戻して、以前のような日常を送ることができる。恐れることも、怯えることもない。それならと受け入れ、戦いに積極的に身を投じる同僚たちも、中にはいた。

 気にする必要なんてないのかもしれない。肉体があって、それを感じられる心があれば、脳や魂がどこにあっても、人は人なのだと割り切れば良いだけなのかもしれない。けれどもどこかに引っかかる。それはいったい何なのか。いずれ訪れるテクノロジーの進化が、現実にも可能としてしまうかもしれない、そうした方法への理解を、あるいは懐疑を、この物語から、そして魔法少女たちの物語から、探っておくのが良さそうだ。

 もっとも、厳しさを増す戦局は、善騎の葛藤を塗りつぶすようにして、ただひたすら生き延びるための戦いへと、善騎たちを引きずり込んでいく。最寄りのドーム都市がアトロハードに蹂躙され、次は自分たちのドーム都市となって、刻一刻と迫る総攻撃の時。軍の上層部は、住民たちを見捨てて撤退を画策するが、それだって順繰りに拠点を潰され、追いつめられるだけの、絶望へと向かう逃避でしかない。

 もう滅ぶしかないと、諦めてしまいたくなって当然かもしれない。せめて人類の最後の意気込みをと、全力を挙げて挑み散るのも悪くない考えだ。それでも、滅びなくて済むのなら、これに勝る道はない。たとえごくわずかでも、生き延びる可能性にかけ、未来のために踏みとどまろうとする勇気をふるうべき。開かれる結末が、そう諭してくれる物語だ。

 同じ日本SF新人賞から出た三島浩司の「ダイナミックフィギュア」(早川書房)という作品にも、巨大ロボを操り、人類の敵と戦う少年や少女が描かれる。死を覚悟して、理不尽な戦いに身を投じ、絶対的な強さを誇る敵を相手に立ち向かわざるを得なくなった時。そこで、少年や少女たちに浮かぶ心理を、比べ考えてみるのも面白い。


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