超人幻想 神化三六年

 生まれた時にはテレビがあって、漫画雑誌も売られていて、その中ではさまざまな「超人」たちが大活躍していた世代。テレビをつれば、そこには仮面をかぶってオートバイに乗りキックを放って怪人たちをなぎ倒す超人がいて、巨大な姿となって怪獣たちを投げ飛ばす超人がいた。

 ライオンの頭をした超人に、昆虫のような顔をした超人。七色に変化する超人もいただろうか。そんな超人たちの活躍を、テレビ画面から毎日のように浴び続け、漫画からも受け取っていた日々は、ともすればテレビや漫画の中だけでなく、現実の世界にも超人たちが存在して、日夜どこかで何かと戦っているのではないかと思わせた。

 いや、さすがに子供ではあっても、虚構と現実の区別はついていただろうと言われるかもしれない。実際にある程度までは、超人は架空の存在だという意識はあった。ただ、時としてそうした超人の実在を願いたくなる気持ちも生まれた。

 自分を助けてもらいたいと願った場合もあれば、自分で助けたいと思った場合もあった。そんな気持ちが虚構の存在に過ぎなかった超人たちに、いつしか現実の地面を黒く染める影を与えて、社会の中に存在を溶かし込ませた。

 あるいは長じて、子供の頃の記憶がだんだんと薄くなり、混ざり合うようになったことで、もしかしたら超人は本当に存在していて、それを記憶の底に沈めてしまっているだけなのかもしれないと考えるようになったのかもしれない。

 最強の存在だと子供ながらに恐れたプロレスラーや横綱を、大人たちは現実に存在する体力的に優れた人間と思うようになっている。そんな心境の変化が、大活躍していた超人を、今は普通の人間と多少違いがある程度の存在として、見ていながら見えていない状態に置いているだけなのかもしれない。

 超人はいたのか。それともいなかったのか。いたとしたらどうしていなくなったのか。記憶から消えてしまっただけなのか。それとも記憶から消されてしまったのか。あの時代から何十年も経過して、曖昧になって混沌とした記憶の中に散り、漂う超人たちを改めて浮かび上がらせ、今いちど記憶に刻もうとする試みにあふれた物語が登場した。それが會川昇の「超人幻想 神化三六年」(ハヤカワ文庫JA、740円)だ。

 舞台となっている時代はタイトルにある神化36年。ただし現実の日本の元号に神化というものはなく、つまりはパラレルワールドの昭和36年を中心とした時代を描いた小説ということになる。そこでは皇紀2600年、すなわち現実の昭和15年に行われることになっていながら、日中戦争の勃発もあって中止になった東京オリンピックが開催されたことになっている。

 それでも太平洋戦争は起こったようで、それに日本は敗戦し、GHQに占領されながらも立ち直って今は、というより神化36年の段階では独立した国となっている。そんな現実との違いがもうひとつあって、それは超人というものがかつて存在していたということ。人間の能力を超えたパワーでオリンピックでも活躍し、戦争にも行って最前線で戦ったという記憶が人々の中にありながら、なぜか記録としてほとんど残っておらず、超人たちのその時点での活躍もない.

 そんな設定を持った時代に生き、まだ黎明期にあったテレビ界で仕事をしている木更嘉津馬という男性が、ディレクターとして担当し、脚本も書いていたのが「忍びの時丸」という人形劇。時間を戻す力を持った少年忍者が活躍する生放送の人形劇で、その収録を始めようとしていたところに、中折れ帽を被ったコート姿の男たちの乱入があり、そして大変な事件が起こる。

 とてつもなく陰惨な事件だったはずなのに、そこで命の危険に瀕した嘉津馬が気がつくと、時間が戻って間もなく番組が始まるという事件が起こる前の状況になっていた。何が起こった? そしてこれから何が起こる? そんな不思議がその後も幾度か繰り返されれて、嘉津馬を混乱させる。

 奇妙な経験の果て、ドゥマという名のかつて戦場で大暴れしたと言われている超人の消息を追う展開を経て浮かんで来るのは、改変された歴史というものが他にも無数にあったということ。そこには、嘉津馬が神化15年に開かれたと認識している東京オリンピックが開かれず、激しい戦争が起こって日本が壊滅する歴史もあった。なおかつそれで焼け野原になった日本に芽生えた娯楽から、ひとりの神様が誕生するといった歴史もあった。

 そして物語からは、重なり合った無数の歴史は少しの意識の持ちようなり、振る舞いの変化からどんどんとわき出ては消えていき、漂い薄れていくものだということも見えてくる。超人もしかり。浮かんでは消え、沈んでは現れた無数の歴史の狭間に時に実在し、時にフィクションとして活躍した超人というものへの認識が、物語を読んだ者には浮かぶだろう。

 そこから得られるのは、この現実世界、超人不在の社会にもしも超人がいたとして、それはどういういわれを持って存在し、そしてどういう活躍をして社会の中に位置づけられ得るのかといった考察だ。気の持ちようによっては超人が現実に存在する可能性すら浮かんで来て、空想と現実との垣根が低くなる。

 そうやって泡の中からしみ出てきた超人たちが、この現実、とてつもなく下らなくて気持ち悪い社会で、何かしでかしてくれるかもしれないといった夢もふくらむ。夢で終わらせたくないと願いたくもなるだろう。超人以外もしかり。あらゆる虚構が現実となり、現実が虚構になる可能性を感じ取って、今をどう生きれば良いのかを自らに問い直したくなるだろう。

 昭和で言うなら36年という、東京五輪を3年後に控えて社会にはまだ戦後が漂いながらも近代が見えていた時代は、未来への希望に溢れた空想が現実のもになっていくだけの余地があった。パワーもあった。テレビの中のフィクションですら現実になり得るのかもしれないと思わせた。

 そんな感覚を、生まれた時にテレビがあった世代は、例えリアルタイムに過ごしてはいなくても、残り香としてかぎ取って自分のこととして理解できる。だからこの、虚構の超人が現実に存在し得る可能性を探究した「超人幻想 神化三六年」という物語を面白がれるけれど、平成に入って生まれ、今が20歳とか25歳の人たちには、どういう風に受け止められるのかに興味が及ぶ。

 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を見て、東京タワーが出来てテレビが普及始めた古き良き時代と認識しているかもしれないけれど、そこに喧噪と猟奇の色合いは薄い。「超人幻想 神化三六年」はそうした喧噪と猟奇を夢や希望と織り交ぜて描いて、超人の実在もあり得たと誰もが信じて不思議はなかったと、知らしめる意味も持っているのかもしれない。

 この物語には続きがある。神化40年代が舞台となったアニメーション「コンクリート・レボルティオ 〜超人幻想〜」。生まれた時にはテレビがあって、数々の超人たちの活躍に触れて驚きを、現実のものとして受け止める登場人物たちがいたのだと、そのストーリーを通して知る若い世代の喜悦と当惑を横目でみながら、そうそういう時代を生きた者たちは改めて、超人の真の意味での実在を、今いちど確信するのだ。


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