私と月につきあって

 この30年の間に世界は大きく様変わりした。インターネットで世界中の人たちとリアルタイムでコミュニケーションが取れるようになったし、筆を使わずキーボードで文章が書けるようになった。自律型のロボットが少々値段は高いといっても市販されて売り切れになる人気を得、2足歩行するロボットが誰の力も借りずに地下鉄の階段を上る。映画ではCGのカエル野郎が賞賛の喝采と顰蹙の罵声を浴びながら本物の俳優も顔負けの演技を見せる。

 なのに僕たちは未だに月に行けずにいる。1969年にアームストロング船長が第1歩を記した瞬間を、テレビで見ていた少年たち少女たちは思ったはずだ。「次は僕たちだ」「私たちだ」と。30年も経って大人になった頃には、口笛を吹きながらタラップを降りて月面を自由に歩き回っているはずだと。

 けれどもたった12人のアメリカ人が月に付けた無数の足跡は、1972年を最後に、その後30年近くに渡って上に新しい足跡を付けられる事なく、真空の月面に今も当時の形で残っている。技術はある。資金も用意できる。だが資金はあってもそれを使ってもっと別にしなければならない事がある。月に行って何になる? お腹が脹れる? 快楽が得られる? 誰か誉めてくれる? このままでは月の無数の足跡は永遠に踏み荒らされそうにない。

 「ロケットガール」「天使は結果オーライ」と続いた野尻抱介の「ロケットガール」シリーズは、10指に余るだろう数を挙げられるこれらの問いかけに答え、宇宙への有人飛行を最優先の課題へと引っ張りあげようとしたフィクションだ。まず費用の面を体重の軽い少女を宇宙飛行士に起用することでクリアした。安価に衛星を打ち上げ保守できるようにしてロケット事業をビジネスに変えた。経済原則に乗っ取りライバルが現れ、プライドも加わって競争が始まった。投じた一石はやがて再び目を月へと向けさせ、新時代の”アポロ計画”が立ち上がって来た。

 そしていよいよ第3巻、「私を月につれてって」(富士見書房、580円)で野尻抱介は、30年前のあの日にテレビの前で決心したであろう月旅行を、その身に代えて少女たちに成し遂げさせようと果敢に挑む。

 主人公の森田ゆかり、その異母妹の森田マツリ、そして天才虚弱少女の三浦茜の「ソロモン宇宙開発」に所属する3人の宇宙飛行士「ロケットガールズ」が、南米のフランス領ギアナへと向かう場面から幕を開けた物語は、不慮の事故(?)でエアバスを操縦する羽目となった。

 どうにかこうにか着陸に成功(??)した3人を待っていたのはフランス版「ロケットガーズル」とも言える5人の少女「アリアン・ガールズ」。今度の「ロケットガールズ」の任務は彼女たちが挑む有人月飛行をサポートすることだった。中華思想の本家とも言えただでさえ気位の高いフランスの、初めて宇宙に出た女子高生に強いライバル心を抱く「アリアン・ガールズ」。中でもリーダーのソランジュ・アルヌールが露にした敵愾心は強く、宇宙で船体を移動させる最適の方法と提案した茜を野蛮を否定し、反発したゆかりとぶつかり合う。

 だが、といってもいささか身持ちが軽すぎるのがフィクションとしての面白さを最優先したからなのか、それとも根深い反仏新日の魂故なのかは解らないとして、予定されていた「アリアン・ガールズ」の宇宙飛行士候補が次々と妊娠でリタイアし、残りも怪我で飛べなくなった。経済とプライドが新たに中国の参入も招いて月旅行への先陣争いが始まっている中で、ギアナの基地にいる人々は決断を下す。「ロケットガールズ出動!」と。

 以後も紆余曲折あって結局はゆかりとソランジェの犬猿コンビが月に向かうことになるのだが、そこで待ち受けている「冷たい方程式」さながらの緊迫する場面を読むと、技術が進んだ30年後の今日であっても、あるいは更に30年をプラスしても、12人しか人間を送り出せなかった月が、それなりに危険でいっぱいの世界だったという現実が強く浮かび上がる。

 南極でも北極でも太平洋のド真ん中でも1人ぼっちになって生還できる確率はゼロではない。けれども月は1人ぼっちでは生きられない。酸素が切れればその時点で死ぬ。そう解ってしまった時点で精神に失調を来さないと言える人間がどれだけいるだろう。だからこそ、「私と月につきあって」で見せた少女たちの相手を励まし自分を鼓舞して精神の落ち込んだ暗闇から抜け出す様に、緊張感の後の安堵感、絶望の後の希望を見て、強い感動を覚えるのだ。

 月面に氷があるとのデータはおそらく最近の観測結果によるものだろう。緑地から緑が失われ水が失われている現実を前に、月の氷がどうしたと言われてその主張を付き崩し、月の氷を確かめにいく有人月飛行を世界最優先の課題に押し上げるだけの衝動を、人類はまだ持てずにいる。無数のハードルを越え、それこそ「私と月につきあって」のラストに提示された人類全体の希望を叶えるために、1つでも良いからハードルを越える準備をしよう。

 「急募、宇宙飛行士、但し女子高生に限る(妊婦不可)」


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