月とライカと吸血姫

 炭鉱のカナリアを可哀相と思うかどうか。カナリアだって命を持った存在で、それが人間の代わりに空気の汚れを察知して、その死によって危険を伝える役割を担わされていることを、差別的だと思うのがあらゆる命を尊び、慈しむ心情というものだろう。

 だからといって、自分がカナリアの代わりとなって先に炭鉱へと降りて、その命を散らせるかというとこれも難しい。命の価値は平等であっても、だったらどちらが先に失われて良いというものではなく、どちらも失われないでいて欲しいもの。もちろん死ぬのが怖いという理由もあるけれど、だからこそ誰に死を押しつけて良いというものではない。怪物と恐れられる吸血鬼であっても。

 そう、吸血鬼。「フリック&ブレイク」シリーズの牧野圭祐による「月とライカと吸血姫」(ガガガ文庫、611円)は、炭鉱のカナリアならぬロケットの吸血鬼、というよりも吸血姫が登場して命というものを見るべき態度、人間に生まれがちな何かを見下したい心理を惹起して、その是非を考えさせる。

 例えるなら旧ソ連みたいな共和国で、アメリカになぞらえられそうなハンバーガーを食う連合王国を相手に、宇宙開発やらロケット開発やらの競争をしている状況がまずある。目下のところ共和国の方が優勢で、スプートニクならぬ人工衛星の打ち上げに成功して連合国を歯がみさせ、今も人類を宇宙へと送り込んでは戻すことに邁進している。

 そこで人間に先んじて犬などの動物をロケットで打ち上げ、地上へと戻そうとするものの巧くいかない。仮に巧くいったところで、それで人間が安全に宇宙へと行き戻ってこられるかの保証もない。人間で実験死ようものなら、いかな独裁的な政権が担っている共和国でも、人心の離反を招きかねないから。

 だったらと共和国が白羽の矢を当てたのがイリナ・ルミネスクという名の少女。実は吸血鬼の姫で、古くから領土にしていた地域に暮らしていたものの、共和国の侵攻を受け、人間によって狩られて今は人類とは違った、動物にすら劣るような立場に貶められていた。

 不死身の王たる吸血鬼がどうして人間の下に甘んじているのか。それは吸血鬼だからといって不死身ではなく、不老でもないからで、心臓に杭を打ち込まれれば死ぬし、事故でもやっぱり死んでしまう。寒さには強くて夜目も利くようだけれど、逆に暑さには弱い吸血鬼を宇宙に送り出し、無事に地上へと戻せれば人間でも成功するだろうということになった。

 扱いとして人間ではない吸血鬼。たとえ見かけは美しい少女であっても、それで同情を得る訳でもなく、実験の途中で死んでも構わないという不遇の中にあった。それでもイリナは古い種族の末裔として、人間に負けず劣らない高い自尊心を持ちつつ、死への恐怖も覚えながら実験に臨もおうとしていた。そんなイリナの世話役になったのが、宇宙飛行士候補生ながら権力者の不興を買って末席に追いやられた青年、レフ・レプス中尉だった。

 宇宙に行く存在を、吸血鬼にしなくてはいけなかったのか、動物のままでも良かったし、同じ人間でも植民地なりから連れてこられた奴隷のような存在にして描けなかったのか、といった思いがふと浮かび、設定に迷った。もっとも、動物ではやはり人間ではなく、そこに人間と同等の価値を認めるのには相当の博愛が求められる。だからといって奴隷では、ロケットを飛ばすほどの文明国となった世界でちょっと通用しない。

 人間らしい見た目を持って知性もありながら、人間とは一線を画する吸血鬼という存在を置くことで、その世界の感覚では一般に非道とされず、けれども意のある人には非道と見えるギャップを読者にも感じさせ、憤りを誘おうとしたのかもしれない。当然に浮かぶ同情は、彼女の成功を願わせることに大いに役立っている。

 動物であっても、そして知性がある存在ならばなおのこと、そこにコミュニケーションが生まれれば感情が芽生え、同情が浮かぶ。そうした感情をどう処理するか。やっぱり動物だからと切り捨てるか。それが出来ないところに人の情動の根源といったものが窺える。

 実験がどうにかこうにか成功裏に終わったところで、吸血姫が動物扱いされている社会的状況がガラリと変わる訳ではない。実験の成否のその先に訪れるかもしれない悲劇を想像しつつ、そうならない道を考えつつ、そうなってしまう世界を今に置き換え、人間なのに状況として人間扱いされず、弾圧や差別に苦しむ者への理解と慈しみを誘う。そんな物語だ。


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