沈黙
rookow

 世界は音楽に満ちている。人を喜ばせ、楽しませ、嬉しがらせ、時々悲しませもするけれど、それでも心をズキっと動かしてくれる、音楽がいっぱいに溢れている。

 どうして人は音楽を欲するのだろう。それより以前にどうして人は音楽を”発見”したのだろう。気分を高揚させるため? 辛く厳しい生を少しでも楽しいものに変えるため? 答えは知らないし、分からない。それでも人は多分きっと、音楽なしにはこれほどまでの繁栄を、築き上げることは出来なかったと思っている。

 音楽は生命の律動を司る心音のリズムに発する。心音のリズムは決して永遠ではない生を人に分からせ、時に流れを与えて人を前へと歩ませる。音楽はだから人に生きていること、そしてやがて死ぬことを自覚させ、そんな限られた時間の中で、精いっぱいの生を過ごさせる役割を持っている。音楽によって今ある生を自覚した人が、自覚できた人間こそが頑張った結果の繁栄だと、そう思って思えないこともないだろう。

 古川日出男がその小説「沈黙」(幻冬舎、1900円)の中で、南米ギアナに伝わる音楽として描写した「ルコ」は、まさしく「生」そのものを表す音楽として存在していた。小説に登場するネーデルランドに出自を持つ音楽家、コーニリアスが自らを阻害した西洋音楽への復讐を期してさすらった果てにたどり着いた土地、ギアナ。そこで彼が出逢ったのが、祭礼の日に突如現れた”目”と呼ばれる男が叩いたリズム、唄った歌だった。

 「音楽が人の像(すがた)ととった」と呼ばれたルコ。その発する「生」の概念を具現化したような激しい音楽をコーニリアスは楽譜に記録し、それを嫌ったルコの表現者であった”目”によって葬られてしまう。しかしコーニリアスの採譜したルコは上海へと伝わり、ナチスへ、米国へと四散した後集められ、1つのジャンルとして様々な音楽の中へと受け継がれ、今も聖歌に、映画音楽に使われ人々に畏怖と感動を与えている、らしい。

 このルコなる耳慣れない音楽は、本編の中心的な語り部と言える秋山薫が、死んだ祖母が遺した手紙を頼りに訪ねた祖母の姉、大瀧静の家の地下室に保存されていた、静の甥、つまりは薫の祖母の兄、鹿爾の息子にあたる修一郎が世界から集めていた、レーベルをはぎ取られたレコードと、「音楽の死」と名付けられた12冊のノート群より見つけたものだった。

 ルコ、アルファベットでrookowと記述される音楽とはいったい何なのか。戦前から戦争直後にかけての美術を振り返る展覧会をプロデュースする藤原の手伝いをしたり、静と同じ料理学校に通っていたベテランのグラフィックデザイナー、丹後の手伝いをしながら薫はノートの解読に勤め、遺されていたレコード群を聞き込み、ある結論へと達する。それは。

 実は薫には燥(やける)という弟がいた。子供の頃に家から失踪して鍾乳洞で4日を過ごした後、それまでの燥とはまったく違った、ある意味悟りを得た人間として戻って来た。後に家を飛び出し、遭う人々の心に忍び込んではやがて破滅へと追い込む美しき悪魔のような少年となってしまった。

 物語の冒頭、大瀧鹿爾がビルマからタイへと逃げ延びた先で上官と出逢う場面が描かれる。そこで上官が口にする「純粋な悪」という言葉が、ラストに配置された薫と燥との対峙の場面に至ってリフレインされ甦る。さらに大瀧修一郎が失踪した父親、鹿爾と対峙する場面が重ね合わされ、修一郎がどうして「ルコ」なる音楽の収集に生涯を傾け、しかし果たせず自殺ともつかない死へと至ったのかが浮き彫りになる。

 それは「悪」と対峙する「音楽」の存在。「生」を司る「音楽」こそが純粋な「悪」に打ち勝てるのだという一つの信念ではなかったか。最も原初の音楽である心臓の鼓動が醸す生への賛歌、生を否定し人を永遠の闇に閉じこめようとする悪を討ち滅ぼす鼓動のパワーに触れて読者は、音楽の持つ力と、音楽が果たした役割について気付くのだ。

 「残酷な舌」を持って父親は異国人にも容易になりすまし、息子はどんな声優でも演じ分けられる大瀧父子の不思議な能力についての描写、修一郎を何くれとなく面倒を見た母方の伯父が取り組んでいた、芸術的な洋画に勝手な吹き替えをつけて娯楽作品にしてしまう仕事の描写、薫子が鉄だっていた藤原という男が取り組んでいたイデオロギーも説明もなく純粋に戦前戦中戦後の日本を今に見せようとする展覧会の描写等々、重層的に積み重ねられた魅力的なエピソードを楽しむだけでも十分だろう。崩壊する家族の描写もまた現代的な問題を抱えて強く訴える。

 しかしながらも、著者が冒頭と結尾で強いイメージをもたらす描写で語る「悪」と「音楽」の対峙を全体に敷衍して考えた時、幾つもあるエピソードに通じる「音楽」への傾斜をそこに見出し感じるのだ。「音楽」の力を。その「存在」を。

 翻って現実の世界で、巷に溢れる大量の音楽が、どれだけ人の「生」に役だっているのか定量的に知る術を今は持たない。けれども音楽を持たない世界を想像した時に、たとえ数週間で消費され消えてしまう音楽であっても、その瞬間に人を楽しませ、喜ばせ、嬉しがらせる役割は果たしていただろうと確信している。もはや人は音楽なくしては生きていけない。「沈黙」の中に己を埋没させることなど絶対に出来ない。鼓動からして饒舌に「生」を語る。そこから人はリズムを得、音楽を得て「死」をも内包した「生」ある今を実感するのだ。


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