Blood


 ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」が書かれてちょうど100年目の今年は、あれこれさまざまな吸血鬼ものが、映像に文学に登場したようですが、そんなブームの掉尾を飾るに相応しい、第1線で活躍するクリエーターたち8人が、吸血鬼を題材に書き下ろした短編を集めたアンソロジー「血」(1600円)が、SFとファンタジーの老舗、早川書房から発売されました。豪華な顔ぶれによる、華麗で淫靡でハードボイルドで雅やかな作品群は、秋の夜長の月明かりの窓辺に、そっと忍び寄る妖し影を、読むものの目に見せてくれることでしょう。

 8人の名だたるクリエーターのなかでも、大トリを飾る夢枕獏さんは、人気シリーズの「陰陽師」で活躍する、安倍晴明と源博雅の絶妙のコンビが登場する「血吸い女房」を寄せていて、いつもながらの洒脱な会話と美麗な描写で、都に起こった不思議な出来事を、晴明がいとも鮮やかに解き明かすさまを見せてくれます。「吸血鬼」という題材を日本に移入した時に、なにを思い浮かべるかによって、たとえば肉ごと喰らう鬼だったり、魂を吸い取る幽霊だったりと、さまざまな解釈が出てきますが、獏さんの場合はそのなかでも、比較的血と関わりの深い「もののけ」を、吸血鬼ものの素材として選びました。

 長く雨の降らない日が続き、ある貴族が遊び半分で雨ごいを行ったところ、しばらくして屋敷の女房たちが、次々と血を吸われる怪異が起こりました。晴明の尽力によって、事件はすぐさま解決しましたが、その結果不思議と雨が降ったため、晴明が雨を降らせたのだという噂が、貴族の間で噂が広まることになるだろうと、博雅は晴明に向かっていいます。その時、晴明が返した「憑きもの落としをした甲斐もあるというものさ」という言葉から、これは晴明、最初から事件の全貌をつかみ、雨の振らない原因も知った上で、憑きもの落としの仕事を引き受けたのではないかということに思い至りました。狐の子と蔑まれ虐げられながらも、陰陽師としての卓越した才能で、複雑な貴族の世界を渡っている晴明です。雨の降る時期を見計らって雨ごいをした空海和尚にも匹敵する、セールスプロモーションの才が備わっていたということになるでしょう。

 美麗といえば、初の映画「ヴァージニア」で吸血鬼を取りあげたこともある映画監督の佐藤嗣麻子さんが寄せた「アッシュ−Ashes」は、退廃した都市を舞台に、青年と吸血鬼の美少女の愛を描いた、残酷な美しさに満ちた一編です。美少女ホリィにのめり込んだ挙げ句、血を吸われて火をかけられ、1度は死んだ青年ですが、10年を経て甦り、夜の街をホリィを探してさまよいあるきます。アンソロジーに寄せられた8編のなかでは、いちばんストレートに吸血鬼を取りあげている作品といえますが、だからといって古典をなぞった陳腐さはなく、むしろ吸血鬼の持つ耽美的なイメージが、一段と洗練された形で現れていて、磨き抜かれた吸血鬼文学の姿を、読者に明示してくてれいるともいえます。

 小池真理子さんの「薔薇船」も、あるいはストレートな吸血鬼物かもしれませんが、逆に吸血鬼という存在を、自らを縛っている心の鎖を開放させるものとして暗喩した作品ともとれ、読む者を奇妙なゆらぎのなかへと誘ってくれます。耽美的な作風で、わずかながら熱狂的なファンを持っていた深見鐵太郎が不慮の事故で亡くなりました。その遺産によって建てられた記念館に、南海子という1人の女性が観覧に訪れます。かつて演劇を志したものの、才能の限界に気づき、ちょうと知り合った居酒屋の女将の後を襲って、小さな居酒屋を営んでいた女性です。

 記念館で見た鐵太郎の絶筆は、ガラス片に足を切った少年が、流れ出る血をそれほど若くない女性に吸われ、「おばさん、誰?」と問いかける場面で止まっています。その断片を読んで南海子は、怪我をして戸惑っていた子供の頃、突然現れた男性が怪我をした場所から血を舐めとっていった記憶を思い出します。甘美な体験と結びついていたその記憶を、南海子は心の奥底に固く封じ込めていましたが、鐵太郎の絶筆によって再び表層へと浮かび上がり、そして彼女に不思議なビジョンを見せるのです。

 流れ出る血と結びつかずにはおかれない性的な体験が、まだ幼かった南海子の心に強い罪悪感を植えつけ縛っていた、それが鐵太郎の赤いトーンにあふれた「薔薇船」という小説をきっかけに、少しづつ解き放たれ、彼女を厳しく辛い現実から、甘美で退廃的な幻想の世界へと引きずり込んでいったのかもしれません。辛い現実へと南海子を押し込め、いま再び甘美の世界へといざなった「血」をめぐる思い出そのものが、死と快楽を同時に与えてくれるメタファーとしての「吸血鬼」であると、そんな解釈のもとに描かれた短編のような気がします。

 ウイーンの奥深い居酒屋で酒を飲みながら、勤勉で慕われ長命を保った吸血鬼の寓話を思い浮かべるようすを描いた佐藤亜紀さんの「エステルハージ・ケラー」、人造の女性につけられた首筋の傷跡から、その傷をつけた存在を作り上げようとした老技術者の、命を賭した行為を描いた菊地秀行さんの「かけがえのない存在」などなど、「吸血鬼」というテーマを与えられたクリエーターたちが短編小説によって返した答えには、たんなる恐ろしいモンスターを創造して、読者を恐がらせようとする、そんな一般に考えられる振る舞い以上の、もっと奥深いもっと高度な、そしてもっとひねくれたクリエーターたちの思考が、存分にこめられているようで、飽きるどころかいちいち深く考えさせられます。もっとも篠田節子さんの「一番抵当権」だけは、心底恐怖にふるえる物語でしたが。答えは読めば解ります。とくに妻帯者、そしてフリーのライター諸君。結局人間にっとっていちばん恐ろしい「鬼」は、人間ということなのでしょう。

 それぞれの作者が、それぞれの長編で楽しませてくれるのが、本当はいちばん素晴らしいのですが、1つのテーマでさまざまな才が競い合うアンソロジーも、渾身の力がこもった長編とはまた違った、他の作家を意識する(意識しないはずはないでしょう)その力の入れ具合が、どんな形で小説の中に現れているのかを探る楽しみもあって、なかなか目が離せません。おいしい作家を入れておけば、それだけでセールスが期待できる出版社側の思惑もあるのでしょうか、読者、作家、出版社と3つのニーズが、同じベクトルを指し示しているアンソロジーは、しばらく隆盛を保つことになりそうです。

 タイムマシンを扱った「仮想年代記」(アスペクト)に、バカ話こそSFの原点とのコンセプトによって編まれた「SFバカ本」(ジャストシステム)と、このところSFのジャンルに、優れたアンソロジーが頻出しています。「ドラゴン殺し」も、体裁こそヤングアダルトですが、寄せているクリエーターはどれも一騎当千の強者で、大人も十分に楽しめるアンソロジーです。いずれもSFの専門ではない出版社から出ていたところに、マーケットの広がりとSFプロパーのふがいなさを感じていましたが、老舗早川もこれでいよいよアンソロジーに本腰を入れ始めたと理解していいのでしょう。これからの頑張りを、期待をこめて見守りたいと思います。


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