天啓の宴
TENKEI NO UTAGE

 面白ければとりあえず良いというスタンスの小説読みなので、「小説とは」などと大上段に振りかざして、構造論だとか文体論だとかをぶってくる手合いを、いささか苦手にしている。小説の中で「小説とは何か」を語るような、いわゆる「メタフィクション」も、どちらかというと苦手な部類にはいる。決して嫌いというわけではないが、女神様が右手に「メタフィクション」と金の斧、左手にアクションやミステリーやSFや時代小説の新刊100冊と鉄の斧を持っていたら、きっと左手の方を先に選ぶ。もっとも女神様が後ろを向いたその隙に、鉄の斧を脳天にたたき込んで、金の斧だけかっぱらって逃げるだろうと思うのだが。

 笠井潔の新刊「天啓の宴」は、『天啓の宴』と題された一編の小説をめぐるやりとりが、それこそ入れ子細工のように幾重にも折り重なった構造をしている、いわゆる「メタフィクション」と言える小説だ。そこでは究極の小説を求めて悩み苦しむ新人作家たちや、そんな作家に理不尽とも言える要求を突きつける編集者、あるいは小説を生産物としてしか認識しておらず、内容についての判断は編集者ではなく市場が下すのだと割り切る編集者などが登場する。また、最後の小説を書き上げたあとに自決した著名な作家の心理を推し量る記述や、一方が構想を練ってもう一方が作品に仕上げる共作についての考え方などが次々と現れて、読み手に「小説とは何か」を幾度も幾度も考えさせる。

 ある雑誌の新人賞を受賞してデビューした作家がいた。名を天童直巳という。自らを主人公にした天童のデビュー作「尾を喰らう蛇」は、「作中の天童は死にもしないし、失踪もしないが、それでも奇妙な宙吊り状態に追い込まれて小説は終わる」(37ページ)という、メタフィクションの構造を持っていた。しかし担当した編集者の三笠は、天童の小説を「手品にすぎない」と切り捨て、もっと優れた第2作を要求する。書けずに悩む天童に、三笠は「作者の究極的な消滅が実現されていたような、奇怪きわまりない小説。小説の化け物か幽霊としかいねない、そんな小説」があったと話す。それが『天啓の宴』だった。

 野々村葉子という人物によって新人賞に応募された『天啓の宴』という小説は、それを読んだ選考委員たちに激しい衝撃を与え、その後の作家、あるいは評論家としての生活に多大な影響を残すことになった。もちろん満場一致で授賞が決まったが、作者は何故か受賞を辞退してしまい、選考委員のもとに預けられていたコピーも、作者によって総て引き上げられてしまった。従ってその内容は、新人賞の選考にあたった4人の選考委員と、担当していた編集者1人の計5人しか知らないまま、永遠の闇へと葬り去られていった。

 だが天童は、三笠から『天啓の宴』のことを聞き、当時の選考委員や、『天啓の宴』を書いた野々村葉子の周辺を尋ね回って、『天啓の宴』がどんな小説だったのかを知ろうとする。そして別のペンネームで、少女小説家として人気を博していた野々村葉子が、被害者となった殺人事件の秘密を探りながら、天童は『天啓の宴』を内部に取り込んだ「『天啓の宴』」という小説を構想していく。そしてもう少しで真実にたどり着くを思われたその時、天童は山中に失踪してしまう。

 ストーリーは後半、天童と同じように第1作だけを残して失踪した作家や、『天啓の宴』を書いたとされる野々村葉子らを登場人物に、『天啓の宴』が誕生し、そして闇へと葬り去られていく過程を暴き出していく。そこでは一見、少女小説家が被害者となった殺人事件を究明していく、ミステリーのような手法が用いられている。しかし巻末を目前に控えた場面で、ミステリーとしての約束事がすべて崩壊し、読み手はさらなる外側に位置する、別のフェーズへと投げ出される。

 野々村葉子によって書かれた小説『天啓の宴』、その『天啓の宴』を内包した、天童直巳によって書かれようとした小説「『天啓の宴』」、さらには『天啓の宴』や「『天啓の宴』」を巡る事件を記述した、さらなる別の『天啓の宴』と名付けられた小説が次々と立ち現れては読者を惑わす。そして、現実に存在する唯一の「天啓の宴」書いた笠井潔は、作家として、あるいは編集者として究極の作品を残したいと熱望する人々の描写を通じて、小説とは何か、小説を書くということは何か、小説を読むということは何なのかを語っていく。

 笠井潔による「天啓の宴」は、野々村葉子が書いた『天啓の宴』や、天童直巳が構想した「『天啓の宴』」のような、「作者の究極的な消滅が実現されていた」小説とはいえない。笠井潔は殺されもしなければ失踪もせず、今も小説を書き続けている。年代が錯綜し、登場人物が錯綜し、同じ”天啓の宴”というタイトルを持った小説が錯綜する構造こそ難解だが、虚構を虚構として整理し、作中の現実を現実として整理すれば、そこには一貫したストーリーを持った、ミステリーの姿が見えてくる。「メタフィクション」が苦手な自分でも、作中の様々小説論を現実の作家や作品などに置き換えながら、次第に明らかになっていく事件の全容を楽しむことができた。

 だがもしも、『天啓の宴』と名付けられた究極の小説が実在していたのだとしたら、文学者には文学的な死を、読者にはそれ以降の読書を無駄と思わせるような至高の小説が実在していたのだとしたら、それはそれでわくわくする出来事に違いない。現実に存在しないのならば、いっそ自分で「天啓の宴」と題した小説でも書いて、新人賞に応募してみるか、などと考えてもみるが、同じ事を考える人は、きっとたくさんいるのだろう。文学賞の選考をしている人に、「天啓の宴」というタイトルの小説を見たことがあるかを、聞いてみたい気がちょっとする。


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