旅のあとさき ナポレオンの見た夢

 ひとりの人間にいったいどれだけの知識が詰め込めるのかは人それぞれとしか言いようがないけれど、こと福田和也に関しては凄まじいといったレベルの知識がその巨体の隅々にまで詰まっていると断言できる。

 その好例が「旅のあとさき ナポレオンの見た夢」(講談社、1500円)。希代の英雄にして悲劇の皇帝、ナポレオン・ボナパルトの偉績をたどった評伝といえばいえる書だが、それはあくまで基本線のようなもの。1ページどころか数行ごとにあちらへこちらへと脱線しながら芸術に文化、軍事に外交、文学に歴史と来てさらに、ワインにチーズにフランス料理といった分野に関する知識を開陳。ページをめくるたびに津波のように教養があふれ出して来て、読む人に新しい発見をもたらし、驚きを誘ってもっと知りたという渇望にもだえさせる。

 グーグルのようなネットの検索サイトに「ナポレオン」と入れたところで、上位に並ぶのは百科事典の項目だとかデリヘルやソープランドといいった風俗営業の店名ばかり。もちろん辞典で業績や生涯を知ることはできるけれど、そこから先へとたどってもせいぜいがフランス革命かその辺りにまでしか話は広がらない。あらゆる情報をフラットに並べる検索サイトは便利は便利。けれども情報の質はどうしても薄っぺらくなってしまう。

 人間は違う。何十年にもわたって知識をため込み経験を重ねた人間に「ナポレオン」と入力した時に、飛び出して来るのは単なる評伝だけには止まらない。偉人に連なる多方面に及ぶ教養だ。それが証拠に「旅のあとさき」という本では、ナポレオンの足跡を尋ね歩くて大義名分のもとに、生地コルシカ島から観光都市ニース、ワインの郷ブルゴーニュを経てパリへと至る旅程が綴られてはいるけれど、そこから離れて四方八方へと広がる情報がどれも素晴らしく、そしてどれもが興味深い。人間グーグル。いやグーグル以上の人間ポータルサイトが福田和也という存在だ。

 コルシカではボッティチェリのやティツィアーノを直に見られる幸福を喜び、日本にナポレオンを最初に紹介したのは頼山陽でその言説を見て幕末の志士たちは刺激を受けて戊辰戦争へと至った可能性を示唆。覇権をうち立てようとしたナポレオンの野望を、大英帝国の提督として2度にわたって潰したネルソンの偉績を示し、そんなネルソンに憧れながら精神性も機能性もまるで及んでいなかった日本海軍のだらしなさを辛辣にえぐる。

 ニースやマルセイユといった南仏では歌にも唄われて日本人にも名を知られる「ホテル・ネグレスコ」を紹介し、ニーチェやアレクサンドル・デュマと南仏との関わりについての知識を開陳し、九鬼周三や遠藤周作と南仏についても語り、南仏を代表するソウルフードともいえるイヤベースを讃えてその味を言葉で伝える。ブルゴーニュに行けば当然のようにワインを嗜み、フランスに根深い学歴主義を冷やかしつつ植民地の統治方法に文句をつけつつそしてパリへと至っては、ここぞとばかりに三つ星レストランの皿と酒の絶品ぶりを語り倒す。

 次から次へと重ねられる皿から口へと運ばれた料理がどんな味を持っているかを語る言葉に舌を誘われること誘われること。酒についての知識も半端ではなく、いったいどれだけの費用をかけたらそこまでの知識が得られるのかと知りたくなる。それでいて合間にはしっかりと、苦学して成り上がり戦争に勝ち抜いて頂点を極め、ジョセフィーヌを娶りながら離縁しマリー・ルイーズを后に迎えながら覇道に走り抵抗にあい、結局は敗れ去って表舞台から消えた希代の英雄の生き様を描いてみせる。

 ナポレオンのすべてが分かる訳ではないけど、もっと知りたいと思うのだったらその時は「ヤングキングアワーズ」で連載されてる長谷川哲也の漫画「ナポレオン 獅子の時代」でも読めば良い。ナポレオンの凄さも至らなさも、周囲の将軍たちの凄まじさもたっぷりと楽しめる。漫画ではなくても評伝を読めばいくらだってナポレオンのことを知れる。

 重要なのは最初の興味を喚起されるかどうか、といった部分。その意味では「旅のあとさき」はナポレオンへの興味を誘い、ニーチェにデュマにルソーにゲーテへの興味を起こし、軍事に外交に経済に歴史を学ぶ必要性を感じさせ、チーズにワインにフランス料理を嗜む粋さを教えてくれる。

 「ナポレオン」だけで検索しれは絶対に知ることのできない知識と教養に接することができる1冊。重ねられた経験と積み上げられた勉学の成果によって極度のチューニングが施され、出てくる情報の質が果てしない程により抜かれ高められている、生けるポータルサイトとも見なせる福田和也の神髄が詰まっている。ここまでの知識と教養をため込むのにいったいどれだけの本を読み、絵画を見て音楽や映画に触れ、レストランで飲み食べ味わったのか。かけられた金額の多さ、時間の長さを鑑みるならこのポータルサイト、価値は果てしなく無限大。その一端をに2000円にも満たない金額で触れられる喜びを諸君、味わいたまえ。


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