僕の小規模な自殺

 生きるべきか死ぬべきかは問題ではない。どうせいつかは死ぬのだから、生きることは死ぬこととイコールで結ばれている。違うのは今か、今ではないかということだけ。それすらも自分という主体が抱く差異であって、他人から見れば、そして悠久の時の流れから見ればささいな誤差でしかない。

 自分が生きるべきか彼女が生きるべきか。これは大いなる問題だ。入間人間の「僕の小規模な自殺」(メディアワークス文庫、530円)は、そんな難問に真っ向から挑んだ物語。めぐらされるさまざまな思考と、そしてひとつの結論から貴方は、自分が死んで彼女が生きるべきなのだと確信する。そうなのか? そうなのだ。

 未来から来たというニワトリが、岬士郎という名の大学生の前に現れて、彼が良く知る女の子、熊谷藍が3年後に病気で死んでしまうと予言する。なぜニワトリが喋るのか。それは未来から来たからだ。なるほど。そして岬士郎は、熊谷藍が病気にならないでいるには、健康であれば良いのだと考え、彼女を引っ張り出してランニングをさせたり、食事制限をさせたり、空手道場へと連れて行ったりする。

 どこかコメディ。幾分シュール。一筋縄ではいかない奴らによる、真っ当ではない展開を繰り出すことに長けた入間人間らしいストーリーではあるけれど、実際、病気が敵だと言われてやれることがどれだけある? 明確な敵だったら、彼女に寄り添い彼女を守れば済む。病気はそうはいかない。空手が黒帯になったところで防ぎようがない。だから健康を目標にする。もっとも、そんな空手の訓練が後で熊谷藍や岬士郎を救ったりするんだけれど。

 岬士郎にとって熊谷藍は好意を抱く相手ではあるけれど、特段付き合っているといった関係にはない。やや深めの知り合い程度といったところ。その割に熊谷藍は岬士郎の言うことを聞いて、近所をランニングしては脇腹の痛みに四苦八苦したり、空手道場で初心者として蹴りやら突きやらに挑んだりする。

 熊谷藍の方はもしかしたら岬士郎に気があるかもしれない。そう思わせるけれど、彼女の方も空手道場にいたイケメンの男とつき合い、食事に行ったりデートに行ったりするから分からない。どうにもモヤモヤとするところ。自分の彼女じゃない。けれども彼女にしたい気もあり、そうでない気もある曖昧さでも、彼女のために何かをしようと考えるところがあるいは人間の、それとも男の心根というものなのかもしれない。

 そんな熊谷藍も、やっぱりモヤモヤの谷間にいるのか、空手道場のイケメンの用事があるといったんは断りながら、食事が用意してあると電話をくれた岬士郎のアパートにやっぱり来て、とある用事で留守だった大学生の作った食事をペロリと平らげ帰っていく。何というか八方美人というか。

 そんな熊谷藍のために、岬士郎は未来から送り込まれてきた刺客ともいうべき犬と戦い、蛇に脅され、そして遂に熊まで相手にすることになる。熊。リアル熊。そんなものに襲われたら人間はいったいどう戦えば良いのかを、真面目に考え策を練り、車まで手に入れて備えるところがやっぱりコミカル。あるいはシュール。どこかフワフワとした空気感が、逆に岬士郎の熊谷藍を生かそうとする意志の揺るぎなさを浮かび上がらせる。

 そこまでして岬士郎は熊谷藍を生かそうとするのか。どうやら本当の歴史では熊谷藍は病気で死に、その代わりに人類全体が救われることになる。だったらどうして、ニワトリは岬士郎を動かして熊谷藍を助けようとするのか。そこに時間というものの豊穣さ、未来というものの多彩さが示されているけれど、問題は岬士郎自身の意志。自分を捨ててまで熊谷藍を生かそうとするその強い意志が、どこから来るのかを考えた時に人は、人だけが持ち得る誰かを思い、誰かを助け誰かを導きくことによって得られる幸福の所在を知る。

 「人類vs彼女。」という帯の文句がそんな物語に大きくかかって、読む人たちの判断を試す。どちらを選ぶ? 彼女? 人類? 彼女といっても自分の本当の彼女になってくれるとは限らないところがポイントだけれど、それでもやっぱり熊谷藍を選ぶ岬士郎の男気を讃えたくなるのが人間、あるいは男といったものではないか。それくらいに可愛いのだ、熊谷藍は。ならば仕方がない。うん仕方がない。

 男ってちょろいね。


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