〔少女庭国〕

 なにを書いても、話から得る面白さや驚きを、大きく殺いでしまう可能性が高そうで、矢部嵩の「〔少女庭国〕」(ハヤカワSFシリーズJコレクション、1300円)について、なにかを書くことは出来そうもない。

 それでも、概略を示すなら、中学校の卒業式に出ようと、講堂に続く狭い通路を歩いていた仁科羊歯子という名の少女が、ふと目覚めると暗い部屋に寝かされていた、というイントロダクションを持つ話。そう書いておく。

 羊歯子が目覚めた部屋は、床も壁も天井も、白い石のようなもので出来ていた。片方にはノブがない扉があり、反対側にはノブがついた扉があって、そこには張り紙がしてあった。

 読んで羊歯子がノブを取り、扉を開いて隣の部屋に入っていくと、そこには少女が寝かされていて、今し方目覚めたといった感じで起き出し、そして少女たちは張り紙と、これからについて検討を始める。

 誘拐されるなり、気絶させられるなりして大勢が、どこか分からない密室に閉じこめられ、そこからの脱出を競い合うミステリー、といった感じがする話だけれど、そこから先がまるで違っている。とてつもなく違っている。

 これは書いてしまうけれど、ハヤカワSFシリーズJコレクションから刊行された話である以上、ただのミステリーに止まっているはずがない。ならばSFなのか? という問いにすら、答えを言いよどむくらい、過去に類を見ない展開が繰り広げられ、読む人を恐怖と、混乱と、妄想の彼方へと連れて行く。

 思い浮かんだのは、結末も、条件もまるで違うものだけれど、SFマガジンの1982年3月号に坂口尚の挿し絵入りで掲載された、フレッド・セイバーヘーゲンの「バースデイ」。宇宙船の中、人口冬眠で眠り続ける男が、その宇宙船で生まれた24人の子供たちの面倒を、1年に1日だけ起きて見続けていく、というストーリーの短編だ。

 この「バースデイ」には、SFの短編らしくしっかりとした結末があって、次の世代へと引き継がれていく、人類の可能性めいたものが示される。一方で、「〔少女庭国〕」には、驚きの中にひとつの開明を得られる、といったカタルシスはない。

 「バースデイ」よりもスパンを長く取り、規模も大きくした舞台で繰り広げられる、人類と文明の歴史についての考察として読めないこともない。ただ、どこまで行こうとしても行き止まりという感じがあるし、終わりもふいっと取り上げられるようなところがある。

 もっとも、この世界や宇宙が無限かというと、決してそうではない。今の時点で人類がたどり着ける範囲は、きわめて限定されたこの地球の上だけ。そこで人口増加や資源の涸渇、気候の変動に伴うさまざまな不足に直面していて、それを解消するために格差をつけたり、略奪や収奪を行ったりしていたりする。

 つまりは世界の縮図なのかと、「〔少女庭国〕」を読み終えて思えば思えるけれど、それを少女たちという単位で描いているところが、この話の不思議な読み味につながっている。なんでも擬人化で美少女化という風潮の中にあって、人類の進化と発展も少女に擬して語ってみせた話。そう言えば言えるのかもしれない。

 なおかつ少女たちは、泣き叫んだり憤り暴れたりするような情動が抑えられ気味で、事実に対して高い理解力を示し、解決のために思考し行動する聡明さを持っている。残酷で凄絶な行為を多く含みながらも、読んでどこか乾いて静かな印象を受ける理由がそこにある。

 これも設定や展開は大きく異なるけれど、佐神良という作家の「S.I.B セーラーガール・イン・ブラッド」(カッパノベルズ)という小説に描かれた、陸の孤島となった千葉県の東京湾岸地域に取り残された少女たちによる、生存をかけた戦いの凄絶さと比べると、どれだけ「〔少女庭国〕」の少女たちが、落ち着きはらって行動したかが分かる。

 やっていることは「S.I.B」に負けず、むしろ上回る残酷さを持っていながら、そうは感じさせない「〔少女庭国〕」の少女たちを、人類は模倣して遠からず訪れるだろう危機に粛々と向き合うべきなのか。それとも徹底的にあらがい、どんなに細くても抜け道を探し当て、そこを抜けていこうとするべきなのか。

 それは自分たちで考えるしかない。ここが目覚めたばかりの白い壁に囲まれた部屋だと思い、隣の部屋に誰かが寝ていると思ってそして、書かれたメッセージに従うべきか拒絶するべきかを熟考しよう。

 けっこう書いた。


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