写真山脈

 広告業界といったら、オシャレにかけても趣味に関しても、己が全存在をかけて最先端を競い合うような人たちが群れ集まる業界。一方で秋葉原ももまた、別のベクトルで最先端を行く者たちが群れ漂う街だ。

 偶然でもなければ永遠に交わることのないだろう、広告の世界と秋葉原。そのうちの広告の世界から、秋葉原を見てテーマとした写真を撮ったらどうなるのか。話題になっている「メイド」「オタク」「萌え」といったキーワードなり事象を引っ張り出しては、自分たちの最先端を行く感性にマッチした形で図像化することになる。

 それ故に、広告業界の感性を経て浮かび上がった秋葉原というものが、オタクの感性で見た秋葉原とは、どこかズレというものを醸し出していて不思議はない。例えば「写真山脈」(博報堂プロダクツ、777円)という写真集が漂わせているような。

 発行元は、名前からして広告代理店として電通と肩を並べる博報堂の関連会社。オシャレな度合いも頂点を極めているそんな会社にあって、輪を掛けて最先端で在らざるを得ないフォトクリエイティブ事業本部が発行したのが「写真山脈」。その第1号でテーマに選ばれたのが「AKIHABARA」だ。

 ページを開くと、抵抗やらコンデンサやらコードといった電気部品が色とりどりに捉えられ、アップにされて掲載されていたり、ネオンも煌めく夜の街並みが、高い感度で鮮やかにくっきりと捉えられた写真で満載。ハイエンドでスタイリッシュで美麗な街だと、見た人は「AKIHABARA」を感じてしまうだろう。

 けれども実際の秋葉原には、日本のみならず海外からもやって来た人たちの群れ集った雑踏の喧噪が鳴り響き、ひっきりなしの人や車の動きに会話すらかき消されそうになる。立ち上る熱気に輝くネオンはぼんやりとくすむ。店頭に並べられた色鮮やかなパーツも、それ以外の味も素っ気もない大量のパーツ群に埋もれて、写真のようなカラフルな輝きなんて放っていない。

 実は格好良いんだよ。そんな広告のクリエイティブな感性がアピールする「AKIHABARA」なんて所詮は虚構の「AKIHABARA」。けれども世間に情報を届けるメディアが、意図するとせざるとに関わらず”誤読”して流した、スタイリッシュでハイエンドな「AKIHABARA」のイメージが、一般のものとして流布され浸透して染みついていく。

 果てに秋葉原に訪れるのは、かつての現実がメディアの”現実”に引っ張られて変化して生まれた「AKIHABARA」のビジョン。六本木化し、あるいは渋谷化した姿。既にして「秋葉原クロスフィールド」を中心に、一部始まっている”浄化”の動きが、広告業界の目という燃料を投下され、拡大しようとしているのが今の状況なのだろう。「写真山脈」をその尖兵の1人として。

 中にはありのままの秋葉原を伝えようとしている写真もある。歩行者天国になった路上を歩くネコ耳のメイドとか、変身ポーズをする青年とか、コスプレしている女の子たちを捉え映したシリーズもあって、秋葉原に集う人たちにとっての日常をそこに確認できる。

 もっとも、全体が醸し出すオシャレさに惹かれ「写真山脈」を買った人が見たら、果たしてどんな感じに映るのか。これは見てみたいと脚を運ぶか。これは何ともと思い背を向けるのか。「写真山脈」が読者層として狙う、アートでクリエイティブでオシャレなターゲット層ならおそらく、うーむとうなってひとしきり悩んだ挙げ句に、見なかったことしてしまいそうだ。

 逆に秋葉原を好む人たちが迷いそうなのが、青野千紘という博報堂プロダクツの社員で写真家の眼鏡女性が、メイドの格好をして秋葉原の様々な場所に出没しているセルフポートレート群か。

 「街に対して、TVや雑誌やらで、なんとなくできあがった『アキバ』というイメージだけはある」と書く彼女は、「メイドの格好をして街を歩き、ある時はテイコウと言われる部品や電球を接写して、撮影してたら楽しくなって、嬉しくなって、なんだぁ、私も写真オタクなんだぁと実感」したという。

 なるほど結構。その努力を買わない人はいない。27歳にもなって、池袋よりも怖いと思っていた秋葉原に行き、コスプレをして歩き回って写真を撮った。よく頑張りましたと讃えられて当然だろう。

 雑踏や満員電車やコンビニやゲーセンに立つ、メイドのコスプレをした眼鏡っ娘という構図も実に今時な秋葉原的的ビジュアルだ。駅前でメイドさんがチラシを配っている光景を見かける今、そんな娘たちが空いた時間にコンビニに立ち寄ったり、着替えもしないで家に帰る光景として実在するかもしれない。それを体を張って演じてみせたんだと、思えば頑張ったと褒め言葉のひとつも出てくる。

 けどでも。メイドはすなわち秋葉原という発想自体が極めて表層的。「秋葉原=メイド」というイメージなんて、この1年くらいの間でマスメディアを通じて狭い穴から伝えられ、けれどもマスメディアであるが故に広く遠く真で伝わったイメージに過ぎない。

 それをマスメディアに働く人たちが、増幅してさらに広い範囲へと伝えようとしているのが青野千紘のシリーズ。そんなマッチポンプ的な図式の外に本来あって、濃く漂っていた秋葉原の特質が、フレームアップされたイメージに押され衰退し失われていくんだとしたら、青野千紘のやっていることを美麗だからといって、讃えて良いのという疑念も浮かんで漂う。

 「メイドの格好をしたら、ゲームセンターに行っても本屋に行っても、そんな日々の些細な事でも全て違って見えて、コスプレする人の気持ちがなんとなくわかった」。コスプレしないよりはした方が近づける。けれどもコスプレしたからといって近づけない部分も多分ある。

 今回のシリーズでは、あくまでも表層的な秋葉原を伝える素材として、自らメイドのコスプレをして秋葉原の秋葉原らしい場所に出没しただけのこと。そうしたスタンスが見てとれるうちは、秋葉原の「AKIHABARA」的イメージだけを掬い搾取する立場を脱せない。

 なので青野千紘には、「コスプレする人の気持ち」に一段と近づくために、メイドとして歩きビラを配りカフェで給仕をし、ホコテンで踊り唄る休日を1カ月でも3カ月でも、続けてみて欲しいもの。27歳という年齢で、最先端が集い最先端を競い合っているハイエンドな場所から、違うベクトルの最先端が蠢き燃え上がる場所へとやって来て、そこの流儀に心底から浸かってくれれば、誰もが諸手を挙げて大歓迎して讃えることだろう。

 こっちへおいで。


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