幇間探偵しゃろく 1桜

 歌や踊りでお座敷に来たお客を喜ばせるのが芸者なら、言葉巧みにお客を褒めあげ、いい気にさせて、嬉しがらせるのが幇間こと太鼓持ち。いわゆるヨイショというやつだけれど、現代において芸者は時々テレビやメディアで見かけても、太鼓持ちを見る機会はなかなかない。というよりほとんどない。

 あるいは、寄席に行ったら今でも、芸としての太鼓持ちを見られるのかもしれないけれど、野においてこその草花の如くに、お座敷で見てこその幇間芸。その現場が失われてしまった現在に、正真正銘の太鼓持ちなり幇間芸を見知る機会は、もうないのかもしれない。

 ならば書物の中に訪ねては、ということで、そんな太鼓持ちが登場する作品が、上季一郎の原作で、青木朋の漫画による「幇間探偵しゃろく 1 桜」(小学館、524円)。なんだ漫画かと言うなかれ。これでしっかり、昭和になったばかりの東京は向島あたりを舞台に、当時はまだしっかりと残っていた花柳界に遊ぶ人々と、喜ばせる芸人たちの姿を描いている。

 そしてそのなかに、太鼓持ちという存在もしっかり位置づけられ、描かれていて、どんな風情だったのかを今に伝えてくれる。ただし。ここに描かれる太鼓持ちの牡丹亭舎六は、客を喜ばせるどころか、逆に怒らせてしまうからいささか規格外。それをそのまま太鼓持ちだと認める訳にはいかなさそうだ。

 もちろん舎六とて、普段は陽気にヘラヘラとしているまさしく太鼓持ちとして、若旦那を喜ばせお座敷に招かれた客を喜ばせてみたりもする。けれども、ちょっぴり酒が行き過ぎると、口が悪くなって、無教養で不調法な客を相手に、無粋だ何だとつっかかっては怒らせてしまい、ひいきにしてくれる若旦那の和田宗次郎を困らせる。

 それならそこで放り出せば良いものを、前に茶道の家元から頼まれた掛け軸の言葉を、自分の代わりに、これでなかなかに教養のある舎六に書いてもらった恩があって、宗次郎も舎六を切り捨てられない。むしろ弱みを握られている格好で、腐れ縁のよにつきまとわれる。

 もっともそれが、2人の間に幸運をもたらす。茶道の家元が急死。その後継者が決まるかどうかという矢先の出来事に、残った後継者たちの間に芽生えた疑心が暗鬼を生んで、ドロドロとした惨劇が繰り広げられそうになる。そこに、行きがかりからら関わることになった宗次郎が、舎六の教養と推理力を借りるというか、押しつけられるように家元の思いを解いて見せて、皆を納得させてしまう。

 弱みを握られた上に、恩まで重なってしまって、前にも増してくっついて回るようになった舎六と宗次郎。そして、またしても起こる事件を宗次郎が引き受け、裏で舎六が解いていくミステリー仕立てのストーリーが展開される。

 驚かされるのは舎六の深い教養で、和歌から三味線からさまざまな芸事風俗文化に通じ、それらをもとに謎を解いてみせるところに鮮やかさがあり、また学ばせてもらえるうれしさがある。とはいえそうした謎解きのテクニックが、今に通じるかというとそうも行かないのは、三味線に和歌に芸事の類が、もはや教養として広く流布していないからだったりする。

 短歌の仕掛けと茶道具のセレクトから謎かけに迫り、解き明かすことができたのは、謎を出す側にも解く側にも、そしてそれらを受け止める側にも同じだけの教養があったればこそ。そうした共通の知識基盤が失われてしまった今、いかな明晰な太鼓持ちといえども、活躍する舞台はなさそうだ。

 やはり昭和に置け太鼓持ち。けれどもそれも寂しい話。なればこそ物語の中で、見かけに寄らず純真で、正義感にあふれた舎六に破天荒な活躍と、そして今は薄れてしまった教養を披露してもらって、100年を経た今につながる共通の知識基盤として、人々の中に蘇らせ、目覚めさせていってもらいたい。

 そのためには少しばかりお酒をひかえ、宗次郎に見捨てられるようなことだけはしないでおくれよ、舎六さん。


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