すなのうえのらくえん
砂の上の楽園

 生きていたいと思う心。子孫を残したいと願う心。それはたぶん、人間だったら誰でも、いや、生ある存在だったらそのすべてに、本能のように備わっている感情なのだろう。いま自分が死んでしまったところで、悲しんでくれる人なんて誰もいないよと思っていても、あるは結婚はしたいけれど、子供なんて絶対に欲しくないよとしようと願っていても、死に瀕すればきっと「生きていたい」と叫ぶんだろうし、子供が生まれればきっと「頑張ろう」と張り切るんだろう。たぶん。

 「生きていたい」と思う心は、時に肉体を越え時空を越えて形となって結実する。ふとしたひょうしに取りあげられてしまった「生」を惜しむ思いが、陳腐な言葉で言えば「幽霊」となってこの世に残る。今市子の短編集「砂の上の楽園」(朝日ソノラマ、760円)に収められた4編の漫画のうち2編が、そんな「生きていいたい」と叫んだ心が今をさまよう様を描いた作品だ。例えば「僕は旅をする」。何気なく朝家を出た弟が、踏切で列車に跳ねられて顔も判別できない有り様となって安置所で眠っている。それを見た姉も、父親も、突然の別離を信じられずに涙することも怒りに震えることもなく、淡々とその死を受け入れ、けれどもやっぱり信じられずに虚ろな時間を過ごす。

 大きな黒い鞄を持って出たはずの弟の、その鞄だけが踏切から見つからない。そして出かけたと思われる金沢の旅館から、弟が泊まったという連絡が入って喜んだのも束の間、金沢に飛んだ姉は、家族から遺体の指紋が弟のものだったと告げられて、おおよその真相がついた。帰宅して、弟の部屋に佇んでいると、ガチャリとノブが回って黒い鞄を肩からかけた弟が入って来る。真相を知っていて、それでもお茶を煎れると言って部屋を出た姉が、戻って見たのはカラッポのベッドと残された黒い鞄。安置所では出なかった涙が、そこではじめて流れ出た。

 「雨になればいい」。いつの間にか車に乗っていた少女は、手にドングリの苗を持ったまま、びしょぬれの姿で初老の男の家へと上がり込んで来た。フロを借り、電話を借りて家へと電話をする少女の顔に、初老の男はどこか見覚えがあった。妻が整理した少女の服を泥に汚れ、気が付くと電話のコードはジャックがはずれたままになっている。布団にくるまったまま「お父さんすぐ車で迎えに来てくれるって」と話す少女を見おろしながら、初老の男は寂しく哀しい真実に気づく。

 読了後、この手の話につきものの「恐い」という感情を作品から微塵も抱かないのは、「生きていたい」と願って結実した2人の思いから、「恨み」の念が欠片(かけら)も感じられないからだろう。ただ純粋に、そして切実に「生きていたかった」と叫ぶ心が形となって現れる。残された者がその思いに触れて、奪われた他人(ひと)の「生」を思い、そしてふだんは気づかずにいる己が「生」への執着を感じて涙する。

 残りの2編は、子孫を残したいと願う人々の、慌て戸惑(とまど)い狼狽(うろた)える様を描いた作品だ。それは「生きていたかった」と思って形となった人の心のようには、読む者に悲しみを与えてくれない。むしろ醜悪で、無様な人という生き物の業を見せつけられているようで心が痛めつけられる。

 「夜の森の底に」。女系家族の旧家の分家に生まれた亜沙子は、大学進学が決まるとなぜか本家に居候することになってしまった。極端に排他的な家系で、女性は結婚相手を自分で決めることができず、一族の女性たちによって一族の中から相手が決められるとこなっていた。本家の世話になり、本家の嫡男彰に思いを寄せながらも亜沙子は、そんなしきたりになかなか馴染むことが出来ずにいた。

 家系には、先祖にあたる女性が、地霊を鎮めるために人柱になったという言い伝えがあった。以来、人柱になった女性トミが、一族にいろいろと助言するようになり、それが今の繁栄につながっているということだった。一族は毎年雛祭りの頃になると、集まってトミ様をお祭りすることになっていた。その年も、大勢の親戚が本家へと集まって来たが、その中にしきたりに背いて家を飛び出し、外の男性と一緒になった女性の息子が混じっていたことが、がんじがらめに縛られた旧家に一波乱を巻き起こすきっかけとなった。

 言い伝えにしばられしきたりから逃れられずにいたのは、ひとえに子孫の繁栄を願う親たちの心根だ。やがて願いが富を呼び、その富を維持するための方便と成り下がったとしても、末永く子孫を残したいという気持ちが根底にあることには代わらない。だがそんな思いが、等しく個である子らの心を縛り、澱となって旧家の気を汚していたのだろう。やがてすべてが明かとなった時、解き放たれた喜びと等しい比重で、解き放たれてしまった場所のあまりの広さに戸惑い脅える心があることに気付き、子孫のためとはいいつつも、結局は自分のためでしかなかったことを思い知らされ、人間の持つ業の深さに愕然とする。

 そして表題作の「砂の上の楽園」。砂漠のオアシスに周囲の部族とは違った金色の髪を持った王族が暮らしていた。いつか天上から迎えが来るという言い伝えを信じ、その日のために一族の血を汚すまいと血族結婚を繰り返したが故に、生の弱った一族になっていた彼らの王が、生き残りをかけて外の部族から新しい血を入れようとしたことから、どろどろとした抗争の火蓋が切って落とされた。

 血を守ろうとする勢力によって命を狙われる王。そんな王をつけねらった青年もまた、一族の体面を慮った父親によって死にも勝る扱いを受けていた。驚くべきラストを経て、言い伝えから解き放たれ、新しい血を迎えた王族たちのこれからが、再び一族の繁栄をのみ願い乞うようにならないという保証はやはりない。血によって縛り、血によって縛られた人々の振る舞いが巻き起こす幾つもの悲劇を目の当たりにして、なお血へのこだわりを捨てられない、これも同じく人間の悲しい業なのだろう。

 先の2編から溢れ出て来る死んでしまった者の「生」への執着の純粋さと、後の2編からにじみ出てくる生きている者の「生」への執着の醜悪さ。読む者の憧憬はおそらく先の2編へと向かうだろう。けれども人は、後の2編にこそ真正面から対峙して、生きていかなくてはならない。何故なら私たちはまだ死んでいないのだから。「生きていたかった」ではなく「生き続けたい」と「生」にしがみついているのだから。


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