スパイラル

 男の見栄と女の意地がぶつかり合って生まれるのは悲劇か? それとも喜劇か?

 出版社を立ち上げ、女性のための雑誌を女性だけのスタッフで立ち上げようとしている男がいたら、とりあえずデキる奴だと誰だって思う。若い女性だったらなおさらで、駆け出しのライターだった東城秋生も、社長の片桐晴彦が話した創刊の熱意に惹かれ、同時に自分を大きく売るチャンスだとも感じて、雑誌への参加を決めた。

 ところが、金曜日の夜に片桐から誘われ、打ち合わも兼ねて飲んだ翌朝。目覚めると秋生は晴彦によって強引に、彼の伯父が所有しているという別荘へと連れ込まれていた。電話をしたいと携帯を探したら、秋生のはどこかに行方不明。片桐の携帯も電池が切れて使えない。充電器も持って来ていない。

 別荘に引いてある電話も当然のように不通に。だったらここまで連れてきた車で送って欲しいを頼んでも、前夜の嵐で道が倒木によってふさがれ、出られないと片桐はにべもない。歩いて帰ろうにもそこは山奥。最寄りの駅までは相当な距離があってとてもじゃないけどたどり着けない。つまりは秋生は、一種の監禁状態に置かれていた。

 そして繰り広げられるのは、優しげに見えて実は危ない男と、窮地にあって生きたいとあがく女とのサスペンス、などでは実はない。雑誌の創刊を目前に起こった最悪の事態から、ただ逃げようとしていた軟弱者が片桐の正体。一方の秋生も有名になりたいという夢を破られ、すがろうとした片桐には性行為で避妊され、本気では愛されていないと感じ激昂して片桐を刺す。

 見栄っ張りな男と意地っ張りな女が、ひとつ屋根の下で育んだものは、理想的な愛でもなければ悲劇的な恋でもない。ただただ滑稽なすれ違い。つまりは喜劇だ。読んでそこに憧憬は浮かばず、恐怖すら感じずひたすらに無様で不格好な人間の有様に茫漠とした感情すら浮かんでくる。自分は違うと逃げたくなる。

 もっとも世の中にデキる男はそうはいないし、切れ者の女もなかなかいない。卑屈で軟弱で見栄っ張りで意地っ張り。そんな本性を持った自分たちと等身大の男と女が見せる等身大の愛憎と、その帰結が清野かほりの「スパイラル」(ポプラ社、1400円)という小説にはあって、そして等身大の自分というものに気づかせてくれる。

 笑われたって蔑まれたってそれが自分の人生だ。見栄なんか捨てて意地なんて放りだして、ありのままをさらけ出して進むしかない。まずは自分を知るところから始めよう。


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