スノウラビット

 過去が変われば現在が変わってしまうなら、過去を変えるのは問題かもしれない。けれども、過去を変えたからこそ今があるのだとしたら、やはり過去は変えなくてはいけないのかもしれない。

 伊吹契による小説「スノウラビット」(星海社FICTIONS、1500円)の場合はどちらなのだろう。太平洋戦争の終結からまだ間もない1950年の東京は御徒町にある家に、母親の弟の妻だった叔母と警察官の青年、伊瀬顕彦は暮らしていた。父母も叔母の夫だった母親の弟も東京大空襲で死んでいて、身内といえるのは2人だけ。歳も8歳しか違わない関係がいささか気になる。

 もっとも、その間に恋情が漂っている気配はなく、顕彦は浅草署に勤務して自治体警察の職務を忠実にこなす日々。その日も吉原へと仕事に向かう途中、3年ほど前に知り合った探偵事務所の所長を務める20歳くらいの女子、貝嶋やちるから簪(かんざし)を買えと勧められ、値切ったものの買ってしまう。

 それはちょっとした社会貢献。知り合ったきっかけが涙を見せて近寄ってきた貝嶋やちるを食べさせたことで、かんざしも半ばボられながら買うことによって戦後の混乱期をひとりで生きる女子を手助けしている。そしてここにもやはり恋情といったものは漂わない。どちらかといえば友人といった間柄。禁欲的なのか生真面目なのか、そのどちらでもあるのだろう、伊瀬顕彦という男は。

 そしてかんざしを持ち千束の街を歩いていた顕彦は、気がつくと見知らぬ場所に立っていた。そこは1950年の東京ではなく、徳川家光公が統べる300年前の江戸。それも花街の吉原で、霧尾という名の太夫が歩く、いわゆる花魁道中の前に出たことを咎められ、追われる羽目になってどうにか逃げた先で顕彦は、白笛という名の花魁に助けられ、お礼にと持っていた簪を渡すことになった。

 その後、また元の時代へと戻った顕彦は、貝嶋からどうやら時を飛び越えるリープをしたのではないかと聞き、探偵だからなのかそして調べることにも長けてい貝嶋から、吉原に白笛という太夫は実在していて、顕彦と別れてから数カ月後に足抜けをしようとして捕まり、処罰されてしまったことを教えられる。

 どうにかして白笛を助けたい。そう願った顕彦は過去へと何度も行くようになる。その際にどこで調べたのか詳細まで知っていた吉原のしきたりなどについて貝嶋から教えられ、現代の細工で作られた櫛を持ち込むことで金に換えて花魁に近づこうとする。惚れたといった動機からではなく、ただ助けたいといった思いから出た行動なのが、顕彦の木訥で朴念仁な性格を表している。

 そんな態度が白笛にも、吉原で知り合った元遊女で、年季奉公から解放されて出たものの行く当てもなく、吉原の片隅の小屋で身を売っていた高良という女にも良い人だと感じさせ、気を向けさせてしまうところがまた憎い。ただでさえガツガツとした男の多い場所で目立つには、真面目な男を演じるのが良いのだろうか違うのだろうか。気になった。

 吉原では初めて花街に来たような風体の浪人、熊田直房と喧嘩になったものの、警察官として覚えた剣道の突きを繰り出し、実は弱かった浪人を退け、なぜか弟子にしてくれと押しかけて来た直房に剣術を教えながら機会をうかがう顕彦。そんな周辺にリボルバーの拳銃を使った殺人事件が頻発して、未来から別の誰かも来ているのかもしれないといった不安を抱くようになる。

 顕彦は白笛を連れて吉原を無事に抜け出せるのか。リボルバーを持ち込んで人を危めている存在の正体は。そうした目の前の危機を乗り越えたとしても、やはり気になるのは未来が過去へと干渉し、過去が未来を換えていくループの図。自分が行って白笛の命を助けてしまったことで、顕彦がいた歴史が大きく変わってしまうことはないのか。そんな可能性が浮かぶ。

 実際、1650年の吉原は顕彦が歩いていた千束のあたりにはまだ存在していない。日本橋にあってそれから何年か経った明暦に浅草の裏手、新吉原へと移転する。だから顕彦がリープによって行ったのは、いわゆる史実の上にある吉原ではないし、花魁という呼び名も18世紀の宝暦年間になって出てくる言葉で、霧尾や白笛が花魁と呼ばれていることもおかしい。こうした史実との差は、もしかしたら未来からの干渉によって変えられた歴史だからこそ起こり得たことなのかもしれない。

 だから顕彦は行くべきではなかったかというと、顕彦が行って助けたからこそ顕彦より後の未来が存在し、その未来があったからこそ顕彦が白笛を助けられたといった展開も浮かんで、彼の行動を正当化したくなる。ただ、そうした円環はひとつの帰結点ではあるけれど、誰かの代わりに誰かが不幸になることになってしまったのがとても寂しいし、悔しい。

 雁字搦めの時間の檻から誰もが幸せになれる道を探って歩くような可能性はあるのか。物語がこれで終わっておらず、続く展開の中で誰もが救われるような物語が紡がれることがあるのか。あれだけ顕彦につきまとっていた貝嶋やちるが身を隠してしまった理由を思うと胸が痛くなる。だからこそ顕彦との“再会”を描くような物語があって欲しい。どこか曰くありげで、けれども本筋には絡まない叔母をも巻き込んでいく展開に期待しつつ。


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