スカイフォール 機械人形と流浪者

 未来をもうこれ以上は望めないと、悲観しかできなくなるギリギリのところまで追い詰められた人間の心理と行動について、強く深く考えさせられる物語が石川湊の「スカイフォール 機械人形と流浪者」(電撃文庫、610円)だ。

 まず世界観が面白い。汚れた地上を離れて人類は空に暮らすようになっている。といっても空中に浮かぶ都市とかはない。塔の上の平地でもない。中空につり下げられたゴンドラを家として、ターミナルと呼ばれる大きくて高い塔の間をつなぐワイヤーにぶら下がって暮らしている。ロープウェイが家になっているとも言える。

 ターミナルとなっている塔には都市があって、大勢が暮らしているけれど、生きている全ての人口はまかなえない。だからワイヤーでつり下げられたゴンドラで移動する流浪者(ドリフター)たちが誕生して、一生をそのゴンドラで過ごす。生まれてからそれこそ死ぬまでを。

 そんな背景を持った物語に登場するのは、両親も家族もいない中、人間としては1人だけの身でゴンドラに暮らしている流浪者の少女スズと、彼女をずっと支え続けている自動人形のエア。そんな2人がゴンドラで移動している最中に、ひとりの青年を拾った。

 怪我をしていて記憶を失い、クウガアマネという名しか覚えていない彼をゴンドラに拾って、スズとエアは介抱する。そして目を覚ましたクウガは、しばらく2人の世話になる。そして始まるゴンドラでの日常は、空中に浮かぶ雲には水があって、そこに魚がいて、それを捕って食べたり、あるいは島が漂っていて、そこに残された遺跡を探っていく巡るようなものとなっている。

 なんだかとても楽しそう。危険な空賊もいて、貴重な圧縮酸素や食料を狙って来ることもあるけれど、自給自足で気の向くままに空を行ったり来たりする生活に憧れる人もいそう。なおかつスズと暮らしている自動人形のエアは優秀で強くもあって、少女ひとりきりのスズをしっかりと守っている。

 ワイヤーがつながっている場所しか行けず、誰かのゴンドラを追い越すことも、誰かのゴンドラに追い越されることもできないため、完全な自由とは言えないけれど、それさえ守っていれば決して不自由でもない暮らしを送っていられる。そう見える。

 そこに陰がのぞく。それは、テリー・ギリアム監督の映画「トゥモローランド」で、絶望の未来を絶対の予言として突きつけられた人の諦観、あるいは無関心にもつながる心理。永遠に空を漂い続ける流浪者にそれが浮かんだ時に何が起こる。もしかしたらそれは今、こうして様々な困難さに直面している人たちにも、相通じる心理なのかもしれない。

 明るくて楽しげで毎日をあっけらかんと生きているように見えて、その実、いったいどれだけの人が諦めに沈んでいるのか。それを「スカイフォール 機械人形と流浪者」という物語が思い出させる。

 ターミナル間を結ぶゴンドラがどういう技術で成り立っているのか、資源やエネルギーをどういう手段で得ているのか、といった説明もあるのだろうけどそれらを主題とせず、置かれた特殊な環境の中で人が至る心理を描いた、ある種観念のSFとも言えそうだ。

 もちろんゴンドラのテクノロジー、地上ではなく中空に生きる人類を見守る高位の存在、眠る遺跡がもたらす将来への糧、生まれた意欲が希望をもたらし人類を救うかという可能性。そうした部分にも興味が及ぶ。

 陸地が沈み、すべてが海に覆われた世界をヨットで移動しながら生きる人類を描いた鳩見すたさん「ひとつ海のパラスアテナ」(電撃文庫)とも重なる、崩壊した未来で生きる人類の心理を探り世界の行方を探る物語。2作を合わせて読んで楽しもう、電撃SF祭りを。


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