wish my precious
塩の街

 滅びを前にして、普段と変わらず平静でいられる人間が、果たしてどれだけいるのだろうか。一瞬にして輝く熱と光に焼かれる滅びなら、平静か否かは関係ない。だが日一日と迫る緩慢な滅びの場合、受ける心へのプレッシャーの大きさはおそらく、人間が生きていて受けるあらゆる不安を、遙かに上回るものになるだろう。間を置かずして心はプレッシャーに壊され、狂気に走るか沈黙に沈むかするに違いない。いつもと変わらない日々を続ける? 弱い感情から逃れられない人間には、とてもじゃないが無理だろう。

 だがしかし、人間として平静を保ったまま滅びたいという気持ちは強くある。逃げもせず、あがきもしないで淡々を滅びる時を待つ日に惹かれる。それを美学と唾棄するならすれば良い。格好付けてるだけだと非難したって構わない。滅びが避けられない運命なのだとしたら、それを平静に受け止めるのも、高い理性と知性を持って生まれた人間ならではの生き方だ。あるいは恐怖をもたらす滅びへの、人間としてのひとつの抵抗の形と言えるかもしれない。

   ある日突然訪れた滅び。その時に人間がどんな行動を、心理を見せるのか。「電撃ゲーム小説大賞」の最高賞となる大賞を獲得した有川浩の「塩の街」(電撃文庫、550円)では、平静さを保ちながらも滅びの原因へと挑む人間の、弱くてけれども強い姿が描かれる。ある日を堺にして、地球は全土を塩におおわれる「塩害」に見舞われた。日本も例に漏れず、交通も経済も政治もほとんど役に立たない状況に置かれてしまった。それでも日本人は、地方レベルで最低限の秩序は維持し、電気ガス水道といった生活設備も生かしながら命脈を保っていた。

 そうした中、2人で暮らす少女と青年がいた。真奈という少女は滅びに直面した人間の暴れる感情の犠牲になったところを、秋庭という青年に助けられ、まったくの他人だったにも関わらず、2人は共に暮らし始めた。そんなある日、2人の所に遠く群馬から歩いてきたという1人の少年が現れる。背中に巨大な荷物を背負ったまま、はるばる海を目指して歩いていたものの力尽き、立ち往生していた所を真奈に助けられたもので、少年は真奈良に秋庭も交えて修理もままならない車を駆って、神奈川の海を目指すことになった。

 少年が背中に負っている荷物が何なのか。それは読んでいるうちにだんだんと分かってくるし、だから世界が沈黙へと向かっているのだという理由も分かって慄然とさせられる。例えるなら大原まり子が書いた「薄幸の町で」や、神林長平の「抱いて熱く」といった短編とも重なるシチュエーションで、滅び行く中で人類のミニマムなユニットである恋人たちが、最後の時間に何を思いどう過ごすのかが描かれた佳篇ともいえる2作に、並ぶ感動を与えてくれる。

 ただし「塩の街」はこれで終わらず、儚げで優しげな愛を描く短編としての完成度を捨てて、長編として滅びの原因を排除するために青年が立ち上がり、立ち向かっていく展開へと進んでいく。そのスペクタクルな展開は、映画「インデペンデンス・デイ」にも似た熱血的で、特攻的で自己犠牲と人類愛に彩られた華々しいもので、最初に抱いたミニマムなシチュエーションで浮かび上がる愛の素晴らしさへの賛意を超えて、読む者を熱さへと引きずり込む。

 好みは様々あって、賛否もいろいろ出るだろう。ただ現実に長編として問われた「塩の街」を前向きに評価するなら、短編として滅びに美を見出すのではなく、長編として未来に可能性を抱かせたことで、SF的な諦観ではなく青春小説的な希望を読む人に感じさせようとしている意図を汲みたい。滅びの時でも失わないよう人類の理性と知性に働きかけ、立ち上がろうと人類の感情に呼びかけることで、漠然とした不安が世界を被い、いつともつかない滅びの時を待ち続ける人類に、生きる力を与え戦う勇気を与えているのだと理解したい。

 運命をあるがままに受け入れ、滅び去っていくのと違って、「塩の街」が選んだ戦い、生き残ろうとする道は、果てしない困難と苦難が待ち受けている。そうした描写をとばして戦い勝利するところまでを描くだけでは、ただ滅びを甘受するよりも問題が残る。作者には戦いの後、秋庭や真奈が苦難を乗り越え苦闘しながらも生き伸び、生き続けていく姿を是非に描いて欲しい。


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