SFバカ本


 男と女の間には、バカに関する認識にも、高くて険しい山がある。

 男は徹底してバカになれる。バカになってバカ話をしてバカにされ、それでもバカであり続けられる。

 女は徹底してバカのフリをし続けられる。バカのフリをしてバカ話をして相手のバカ度をチェックして、後でこっそりあいつってバカなのよとバカにする。あるいはバカのフリをしてバカ話をしながら自分のバカ度をチェックして、ワタシってバカなのねと悲嘆にくれつつ悦にいる。

 思いついたことを熟慮もせずに書き飛ばしただけだから、勘違いとか大間違いとかあるかもしれない。しかしそれでも、大原まり子と岬兄悟の夫婦SF作家が編纂したアンソロジー「SFバカ本」(ジャストシステム、1900円)を読んでると、男と女のバカに関する認識には、やっぱり深くて長い川があるような気がしてならない。

 「原始、SFはバカ話であった」と帯のアオリにあるように、このアンソロジーには、SFが持っていたホラ話やバカ話としての要素を取り戻すべく、現在も1線で活躍している作家に依頼して書いてもらった「バカSF」9本が収められている。大原、岬夫妻の作品は当然のことながら1本づつ入っており、他は梶尾真治、斎藤綾子、高井信、中井紀夫、火浦功、村田基、森奈津子といった面々。『遅筆で知られる火浦功の新作超短編が読めるのは、「SFバカ本」だけです』なんてセールストークを入れてもいいくらい、異能な面々が作品を寄せている。

 9人のうち男性が6人で女性が3人。男性作家の作品は、どれもこれも分かりやすくて面白い。面白くてタメにならない。直球1本やりの「バカSF」である。

 例えば梶尾真治の「怒りの搾麺(ザーメン)」は、どんどんと進む早熟化の果てに、ザーメンが意識を持って権利を主張し始めるというい話。岬兄悟の「吸血Pの伝説」は、突如ペニスが巨大化し始め、血液を求めて夜毎女性を襲うという話。高井信の「恍惚エスパー」は、セックスによって相手の女性の超能力を目覚めさせられるようになった男の悲喜劇。ザーメンとかペニスとかセックスとか、ソッチ系の話が多いのは、バカ話の基本はワイ談であるとういことだけで、男の書く物だからというような、性差に基づくものではない。

 事実、女性陣3人の書く「バカSF」にも性描写はふんだんに出てくる。むしろ性的な要素を含んでいるとうい点で、3人の女性作家の作品は共通している。しかし、男の書くワイ談とどこかが違う。突き抜けた脳天気さとは一線を画した、内蔵に染み込んでくる不気味さがある。

 大原まり子の作品は「スーパー・リーマン」。作家と編集者と美貌のダイエット評論家と作家のヒモが織りなすドタバタに、ペニスが巨大化するとかセックスでテレポートするとか(おお「郵性省」!」)いった、非現実的な設定を外挿する手法は用いられていない。会話や行為をエスカレートさせて、あるいはスリップさせているだけ。それでいて、どこか非現実的な空間を作り出してしま手法は、「バカSF」というよりは「文学」、ジャンルでいうなら「アヴァン・ポップ」「スリップストリーム」といっものに近い雰囲気を持っている。

 斎藤綾子の「ハッチアウト」もまた、幽体が離脱して街をさまよい出すという「SF的設定」が用いられているものの、それが本質ではなく、虚う女性の心象風景や、交感する性といった描写の方が、より強く打ち出されているように思う。3人の中で1番「バカSF」に近いのが森奈津子の「哀愁の女主人、情熱の女奴隷」だが、セックス・アンドロイドと朴念仁の女主人と清純(そうな)少女が織りなす物語にも、やはり乱れる性への醒めた目が光っているように感じる。

 あとがきに「バカSF」として例示された、小松左京の「地球になった男」、筒井康隆の「陰悩録」、そして横田順弥の一群のハチャハチャSFは、設定の奇抜さと語り口の妙で、ゲラゲラ笑いながら楽しめた。「吸血Pの伝説」も「恍惚エスパー」「怒りの搾麺」も、その意味では正統的な「バカSF」であるといえる。

 だが「スーパー・リーマン」や「ハッチアウト」には、笑い飛ばせない何かがある。彼女たちにとっては、これが「バカ話」であり「バカSF」であるのかもしれない。しかし男たちは、背筋に冷たい氷を押しつけられたような感触、背中に刃物を突きつけられた感触を、これらの作品から受け取る。

 男と女の間には、暗くて広い宇宙がある。

 火浦功の「馬鹿SFはこうして作られる」は最短だけど最高傑作。日常と非日常の狭間で揺れる男のとまどいを、短い文章の中に見事に凝縮させている。背中の方から響いてくる「るんぱっぱ」の歌に振り向くと、テレビで黄桜のコマーシャルを放映していた。ぞくぞくした。


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