セッション
綾辻行人対談集

 小説家のエッセイや対談が、ファンの人たちに好んで読まれるのは、ふだんは作品の向こうに隠れている、小説家の考えていることとか好きなことなんかが、小説家自身の言葉によって、そこに語られているからだと思います。

 けれどもエッセイなんかの場合だと、ありのままを語っているようで、やはり自分の小説家としてのスタイルが、そこに反映されていることが少なくありません。対して対談なんかでは、ライブの妙とでもいうのでしょうか、思考の果てに1字づつ1行づつ、原稿用紙を埋めていって書き上げたエッセイとは違って、相手の反応を引き出すためのネタ振りとか、相手の突っ込みに対するたじろぎとかいった、小説家の人間っぽい面が出て来るようです。

 それともう1つ、対談という形式がもたらす効用に、対談する相手のラインアップから、小説家の興味の持ち所というものが、見えてくることがあります。もちろん雑誌の対談連載のホスト(ホステス)役のように、話題の人なら誰彼構わず、呼んでしまうというケースもあります。ですが雑誌の1発企画などでは、少なくともまるっきり興味のない相手と会って、時節柄の挨拶でお茶を濁して盛り上がらない時間を過ごし、最後に近作の小説とか映画とかレコードとか芝居とかに話題を振って、宣伝するようなことはないでしょう。ですからある程度は、小説家が対談する相手としてセレクトした人たちから、何かを読みとることは可能だと思います。

 綾辻行人さんの対談集「セッション」(集英社、1600円)の場合も、対談する相手のセレクトに、綾辻さんの興味の持ち所が現れているような気がします。ミステリー作家ですから、冒頭のセッション1で、「ミステリー小説、その多様な世界」と初出誌で題された対談の相手として登場する宮部みゆきさんに始まって、セッション5「主役は”館”と”妖怪”」の京極夏彦さん、セッション6「本格ミステリをめぐって」の北村薫さんと宮部みゆきさん、セッション7「Detective story can never die!」の山口雅也さん等々、同業のミステリー作家の人たちが多くなるのは解ります。

 けれども10編のセッションの中には、怪奇漫画家の楳図かずおさん、医学者の養老孟司さん、ロック・ミュージシャンにして小説家の大槻ケンヂさんが入っていて、なるほど綾辻さんにとって楳図さんは「我が心の師」(59ページ)で、「幼少期の衝撃的な出遭い以来、おそらく僕が最も甚大な影響を受け続けてきた大作家」(同)だったのか、「初期の頃からずっと聴いています」(79ページ)というくらいの筋肉少女帯のファンだったのか、といった、小説を読んでいるだけでは決して解らない、たとえ作中の人物に自己を反映させていたとしても、小説が虚構の物語である以上は真実として断言できない事柄が、対談集を読むことによって解って来ます。

 しかしやはりミステリー作家、ミステリー作家のことを知るとばかりに、ミステリー作家を相手にした対談では、とことん話がはずむようで、昔子供の頃に読んでいたミステリー作品の紹介っこだとか、新本格を含めたミステリー全般の現状と将来展望についての意見交換などを、実に活発に行っています。

 例えば法月綸太郎さんとの対談には、漫画「巨人の星」が本格だったとう前提のもとに、「今後出てくる真の第二世代は『侍ジャイアンツ』になるのかもしれない(笑)」(213ページ)という綾辻さんの言葉が出てきます。消える魔球こと「大リーグボール2号」にも、よける魔球「大リーグボール3号」にも、実技では難しいかもしれませんが、それなりの理由付けがなされていて、ライバルのバッターたちは、ヒントをさがし、あるいは自分で考えて、与えられた「大リーグボール」という謎に挑みます。

 対して、「巨人の星」の外見の枠を忠実に受け継いだ(引き写した)作品と法月さんに見られている「侍ジャイアンツ」は、いきなり「大回転魔球」とか「分身魔球」とかが登場してしまいます。消えたりよけたりするメカニズムを解きほぐして対策を考えるプロセスが綿密に描かれた「巨人の星」と、だから「侍ジャイアンツ」はちがうのだそうです。

 これなど対談のライブ感覚の中でうまれた言葉遊び、思考遊戯だと言ってしまえばそれまでなのですが、含まれている意味合いに、最近の「コズミック」論争、つまりは本格の要素をこれでもかと増幅して並べ詰め込んだ作品とか、進化の袋小路に陥ってしまった作品と「コズミック」を評する言葉と、どこか合い通じる部分があるような気がしてなりません。「コズミック=侍ジャイアンツ」説。対談が行われたのは96年4月ということですから、5カ月後のあの衝撃を「予言」する対談だったと言えなくはないでしょうか。

 興味深いのは、デビュー間もない京極夏彦さんへのインタビューです。謎の作家として、実は多忙のため、なかなか表に顔を出していなかった京極さんが、初めて世間に「お披露目」された対談です。世の注目いかばかりだったかと、想像してあまりある物があります。

 なかに京極さんの第2作「魍魎の匣」の形式をどう見るかで、編集の人が「むしろSFと言った方がいいかもしれない」と振ったところ、綾辻さんは「SF(笑)。サイコ・サスペンスだと言う人もいるだろうし、いろんな言い方があると思いますけれども、やっぱりスピリットは本格だというふうに僕は捉えています」(123ページ)と答えています。SFで育った人なら真顔で「SFです」と言い切る可能性が高い設問に、しかし「スピリットは本格」と答える綾辻さんの「本格スピリット」の高さ、堅さを感じます。

 巻末の西原理恵子さんによる袋とじ漫画「それゆけあやつじくん」は、綾辻さんと西原さんの対談ではなく、完全に西原さんの作品です。そこには西原さんの主観による「あやつじくん」が、館印税をむしりとられる様や、サングラスをはじき飛ばされる様が描かれていますが、だからといって現実の綾辻行人さんが、印税を麻雀ですったり、西原さんとギャグ長編の競作を真面目に考えたということは、絶対多分きっとおそらく、なかったんじゃないかと思います。

 ありのままの姿を見せ、ライブ感覚のやりとりの妙で楽しませてくれた対談の巻末に、虚構の妙が光る漫画が付いて来るのを可とするか否とするかは、人によって意見の別れるところでしょう。ミステリーより先にSFにのめり込み、かつ西原ファンでもある当方は、新本格にのめりこむきっかけを作った「霧越邸事件」を書いた綾辻行人さんが、かくも格好悪く情けない姿に描かれているといっても、可哀想で悔しいとか思う前に、楽しくって微笑ましい漫画だと、受け入れてしまったのですが。


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