セレス

 「金持ちしかケンカせず」

 なんて世界を楽園だなんて言うのは貧乏人にはちょっと辛い。でも向こう側の住人になれればこれほど愉快なことはない。まるほど現実の世界だって”地獄の沙汰も金次第”、金さえあればたいていの快楽も悦楽も手に入れられる。

 もちろん金では手に入れられないものだってある。例えば「仙術」。1000年修行をしたって白い太股に眼が眩んだだけで元の木阿弥になる術だ。金なんかで解決できる筋合いのものでは絶対にない。

 けれども南條竹則が「セレス」(講談社、1800円)のなかで描いたデジタルネットワーク上の仮想空間「セレス」は、それこそ金さえあれば仙術だろうと神通力だろうといくらでもマスターできる、というより金がなければ移動することだって不可能な世界だ。

 その世界では、「セレスチャル」と呼ばれる仙術を発揮するたびに、つまりは「セレスチャル」を発動するプログラムを入力するたびに、現実世界の口座から確実にキャッシュが引き落とされる。あらゆる術をマスターして強くなれるのは金持ちだけ。「金持ちしか喧嘩せず」というのもそういう事情があるからだ。

 そもそも「セレス」とは何か。幸田亘という男性を通じて語られる物語によれば、台湾にあるマンダリン社がコンピューターのなかに作り上げた仮想現実ネットワークのことを指す。現実で似たものを上げるとすれば「ハビタット」、あるいは「ウルティマ・オンライン」のようなネットワークゲームといったものになるだろうか。

 但し「セレス」はパソコンのモニターに現れる世界でCGのアバター(分身)を操作するだけのものではない。全身を浸してあらゆる感覚を仮想世界へと移し替えるインターフェスを介して、人は「セレス」へと入り込む。小説だったら柾吾郎の「ヴィーナス・シティ」か、内田美奈子の「BOOMTOWN」に出てくる仮想空間に、「セレス」も似たものだと考えるのがちょうど良い。

 ただし大きくこれらと異なっている部分が1つある。中国の歴史的な都市をモチーフにした「小セレス」という空間を出て、「大セレス」という空間へ移動した時、ユーザーが見るのは山が連なり草原が広がり雲がたなびく世界。まるで”仙境”という言葉がぴったり来るのも当たり前で、「セレス」ははじめから”仙境”を意識して作られていた。

 幸田ははじめ、日本でこのサービスを提供するプロバイダーからの派遣社員としてやって来た。「小セレス」から「大セレス」へと出て見学している最中に、西清玉と名乗ったその世界では妙齢の美女、実は現実の世界では歳を経て余生を送って老人に出会い、惹かれてしまう。別れて後に幸田の会社が本格的にサービスをはじめることになったのをきっかけに、幸田は「セレス」への駐在員として再び仮想世界に脚を踏みいれる。

 当然のごとく幸田は女性に合いに活き、離れていた3年の間に「セレス」を取りまく環境が大きく変わってしまったことに気づく。香港でコンピュータ会社を営み、「セレス」のプロバイダー事業も手がけるサブライム社の総帥・張雄峰が、自分でも仮想現実ネットワーク「神界」を作り、世界の誰もが参加して力を競いあげる「闘技場」を作ろうともくろんでいた。

 「セレス」にも事業パートナーとして訪れた張は、自分の意のままになる「セレスチャル」に感動し、金に明かせて巨大なスペースを「セレス」に確保し仮想世界でもその権勢を誇ろうとしていた。元始天尊と名乗った張は、西夫人を虐待し、彼女を助けようとした幸田を打ち倒してますます傲慢になっていいった。12人のスタッフを「崑崙十二大仙」と名付けて「セレス」を我がもののように闊歩していた。

 導入部が「セレス」の世界を説明する世界だった物語は、後半大きくその趣を変えて仮想空間で金にあかせて「セレスチャル」を使いこなせるようになった人々が、あらゆる術を駆使して戦う仙人バトルへと発展する。なるほど日本ファンタジーノベル大賞優秀賞をとった「酒仙」の南條ならではの展開と言える。

 現実世界では実現の不可能な超能力の戦いを、金といいう対価を支払えば利用できる仮想世界を作って実現させてみせた、その発想がなんとも現実的で面白い。「東京ディズニーランド」に代表されるテーマパークのような仮想世界では人は最後に自殺してしまうが、仙人のように思索と鍛錬がテーマとして与えられた仮想世界ならば永住に支障がないという、その主張も世界のあらゆる出来事がイベントのように見え、アトラクションのように思える現代への示唆に富む。

 ただ決して長くはない物語のなかで、過去に類をみない魅力でいっぱいの「電脳仙境」が、単なる金持ちどうしの争いの場としてしか描かれていないのが、なにかもったいなく思えて仕方がない。

 「セレス」という仮想世界の成り立ちに老いらくの恋いを絡めて描いた第1部をプロローグにして、仮想空間ならではのエピソードをさまざまに積み重ねつつ、電子的に心を移し替えることが可能か否かを問いかける科学的かつ哲学的なテーマを通底して描き、最後の決戦へと持っていくことで、さらなる長大かつ重層的な物語になり得たような気がして仕方がない。読み手としてもその方が楽しみが増えて嬉しかっただろう。

 それでも気楽にすっと軽く読める物語のなかで、先に掲げたテーマのすべてを網羅して、過去に類を見ない仮想世界を提示してみせたその想像力、描写力はやはりさすがなもの。望めばきりがないことを承知した上で、現実の世界ではまだ夢の仮想世界へのダイブがいずれ可能になる時代が来ることを願いつつ、1つの形をみせてくれた作者を讃えよう。

 そして今は、夢が現実になるだろう時代に備えて、頑張って金を貯める事にしよう。せめてケンカはできずとも、アクセスをして清玉のような永遠の恋人を見つけられるくらいの金を。


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