先生とそのお布団

 石川博品でもそうなのかと思いつつ、石川博品だからそうなのかもと思い直したりもした「先生とそのお布団」(ガガが文庫、593円)。

 ピコピコ文学賞で新人賞を獲ってデビューして3年。「猛毒ピロリ絶賛増殖中」は3巻まで続くシリーズになったもののそれすらも担当がせっかくだからと言って出してくれたもの。以後、「タカムラさんの修学旅行で無人島漂流からの大逆転サバイバルマニュアル」を出したものの売れず次、新人賞を獲得した版元から出してとの依頼はなく、そしてどこから何を出すかも定まらないまま石川布団はアパートに暮らしスーパーで週5日のアルバイトをしながら小説を書き続けている。1匹の猫とともに。

 その猫が「先生」。なぜ先生かは人語を話して石川布団にあれやこれやと小説の書き方から文学の嗜み方から校正のやり方まで指導をしてくれるから。猫が人語が話すことくらいはフィクションを生業としている石川布団にとって驚きでも何でもなさそうだけれど、そこまで小説に詳しいことは以外だったか、それとも当然だと思ったか。何しろ先生がもといたところは尾崎クリムゾンというベテランのライトノベル作家の家。飼い主が海外に移住することになって引き取り手を探す中、和泉美良という石川布団よりは1年早く、そして何と中学2年生でデビューして人気作品を次々に送り出している美少女作家が石川布団に仲介してきた。

 最初は別の子猫を示して飼わないかと誘い、そしてやって来たのが実に9歳という成猫のロックだったという展開。和泉美良は石川布団をだまそうとしていのか、あちらこちらに子猫の引き取りを打診していて引っ張りだこになってしまっただけなのか、そのあたりは不明ながらも結果として尾崎クリムゾンという大家から猫を引き取るという栄誉を得、それが文学を解する知的で聡明な猫であり、また売れっ子の和泉美良という美少女作家に恩を売れて石川布団の作家人生は順婦満帆……と思いきや書くもののすべてがどうにも売れない。

 なぜなのか。やはり書くものがといった話に落ち着きそうなのはまさに書いている「少女御中百合文書」という作品からも感じとれる。なにしろ舞台は鹿児島で、かつて存在した思春期の少年たちを集めた御中を少女向けに設定し、そこで少女たちが暮らしながら情交するような話を鹿児島弁で書いている。「昼間は真希奈も由恵も、わっぜはしゃいじょったなあ。見ちょって。まこてげねかったわ」。意味が分からない。いや読めば分かるらしいけれどもそれが全編ではやはりちょっぴり縁遠い。

 それも含めて一念発起、持ち込みを行ったぺろぺろ文庫で示したものも、帯刀が許された社会で中学生が人を殺しまくるバイオレンス・アクションであり、幽霊なのに女子高生をやっている平家さんが鬼界ヶ島から黒潮に乗ってやってくる話であり、女子が相撲を取る学校に呼び出し一族の末裔の少年が入るといったもの。なんだかとっても面白そう……と思えるのは、後宮で野球がはやっている中に少年が女装して潜り込む「後宮楽園ハレムリーグ・ベースボール」のような石川博品作品が大好きな人たちくらいだろう。あるいはキンドルパセルフブリッシングで出した「平家さんと兎の首事件」のような。

 そう、石川布団とは石川博品であって、面白そうだとごくごく一部に思われながらも大多数からは関心を持たれづらい作品を書いては売れずにシリーズを代え版元を代えて書き続けているライトノベル作家のこと。そんな人間がどのようにして創作に挑みつつ跳ね返されてもあきらめず、書き続けては同人誌でも出すことを画策して即売会に出展しあるいは通ってイラストレーターを探し出す、そんな努力の日々を読んでが張っている姿が「先生とそのお布団」という小説から読み取れる。

 それは不幸かというと、書きたいことを書き続けられるある種の幸福がそこにはあるし、1年先輩ながら15歳も年下の売れっ子で美少女で直木賞まで取ってしまった作家といっしょに山など行ったりして傍目にはうらやましいばかり。ただ、作家としてどうかと言えば書きたいものを書いても売れず編集者の言うままに書き直してもやはり売れず、同人誌で声をかけたイラストレーターが商業出版の際には外され苦しい立場に立たされるという、なかなかに神経が痛みそうな出来事も繰り返される。それでもなぜ書くのか。書き続けるのか。

 「僕の本なんてどうせ売れないんだから」とぼやいた石川布団に先生は言う。「本当はどうせ売れないなどと思っていないくせに、よくもそんなことをいったものだ。もしそう思っているのなら、打ち切りなどで落ち込んだりはしないはずだ」。その通り。「本当は毎会今度こそ売れると思ってます」。だから書けるのだろう。書き続けられるのだろう。

 新シリーズでペアを組んで、ちょっぴり好意を抱いたイラストレーターにシリーズの続編が出ずもう会えないと思ってメールを出して食事に誘ったら体よく断られても落ち込まない、その意識。書くのだ。書き続けるのだ。そしてそれは売れるのだ。売れるはずなのだ。そんな意思がなければもしかしたら、作家という身では居続けられないのかもしれない。

 だからきっとこの「先生とそのお布団」がさっぱり売れなくても、石川博品は書き続けてくれるだろう。場所を同人誌即売会に変え、小説投稿サイトに代え、電子書籍の個人出版に代えても書き続けてくれるだろうから僕たちは、ごくごく一部であってもその本を面白いを思って読み続けてる人たちは追いかけ続け、買い続けて読み続ける。そのことでしか応援できないのだから。応援できているのだろうかと少し不安になることもあるけれど。

 作中、石川布団と先生との会話を借りて作家の作風について交わされる言葉が興味深い。書きたいものを書きライトノベルの枠組みすら飛び越え大勢に読ませたいと一般小説に進出した和泉美良が出した「女たちのファミリーツリー」という小説を石川布団に聞かせてもらって先生は「和泉美良は選択の結果として書いているのではない。あれが書くのは骨がらみの宿命ゆえだ。モチーフもテーマもすでにみずからの内に持っているものだ。あれのような作家は作風の幅が狭くなりがちだが、後生に残るような作品を書くのも彼らなのだと思う」。

 ライトノベルから一般小説に移ってターゲットを広げ、作風を広げれば売れっ子になれるかもしれないけれど、そこに自分はあるのかといった疑問が浮かぶ時があったりもする。けれども本当に書きたいものを持っている作家は、どこであっても書きたいものを書き連ねていってそれで読者を引きつけ感動させるもの。そうではなく、ただ流れで幅を広げるだけでは同じことの繰り返しになるのかもしれない。

 もちろん時流の変化に即応して、タイミング良くテーマに乗った作品を発表して受け入れられて流行作家となってそれを続けていくことも可能だろう。そうした生き方もまた作家としてありだとするなら石川博品はどちらの道を選ぶのか。「オフトンは自分が好きなものを外部から持ってきて、それを書く。物語も設定もキャラクターも語り口も、そもそも書くという行為自体も、オフトンの好みを基準に取捨選択されたものだ」。

 それで幅広いテーマを扱い技術も身につけ、世に出した小説で生き続けると作中の人物に言わせながら、百合であり女装であり狩猟でありといった独特な世界を紡ぎ続ける石川博品の頑固さに、僕たちはこれからもつきあい続ける。


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