成巌寺せんねん食堂 おいしい料理と食えないお坊さん

 「即今、当処、自己」

 今、ここで生きるとも、今、ここにいる自分に集中するとも解される禅のこの言葉を人間は、人生のさまざまな場所できっと味わっているだろう。進路が見えなかった時。仕事がうまくいかなかった時。命に限りが見えてきた時。もうここにはいたくないと悩んだり、ここにいてはいけないと迷ったりするような場面で思い出し、ぎゅっと噛みしめる。

 「即今、当処、自己」。十三湊による「成巌寺せんねん食堂 おいしい料理と食えないお坊さん」(メディアワークス文庫、590円)という物語もまた、そんな人生の岐路にさしかかっている人たちにとって、禅のこの言葉を強く感じさせる物語だ。

 東京のリノベーションをメインとした不動産関係の会社で働いて10年ほど。それなりに仕事はできたものの、先輩と衝突して居づらくなって退社を決意した千束というアラサー女子のところに父親から電話がかかってきた。

 千束の実家は、成巌寺という名刹の門前に並ぶ仲見世で300年にわたって精進料理の食堂を営んでいた。そこで料理人として働いていた祖父が倒れたというから駆けつけたら、足を痛めたくらいで今日明日にどうということはなかった。だったらどうして千束を田舎に呼び戻したのか。それは、仲見世にとって大家に当たる成巌寺の次男で、千束とは同級生だった體ケという僧侶が、仲見世に地代を10倍に値上げしたいと言ってきたからだった。

 浅草の浅草寺でも起こった仲見世への地代の値上げは、もうずっと昔の価格でやっていたのを適正価格にしないと、寺社だって固定資産税が払えなかったりするからで、経営を考えれば当然といえば当然のことだった。とはいえ、長くその地代で営んできた仲見世の店舗の方は、いきなり10倍にされてはでは経営が立ちゆかなくなってしまう。上がるくらいなら閉めて隠居するという店もあって事態は揉めそうだった。

 ならばと白羽の矢が立ったのが千束。隆道と知り合いで不動産関係にも詳しい彼女なら話をつけられると呼ばれたらしい。それで出向いて道隆と話して、なるほど相手の言い分に理解はできるものの、はいそうですかと受け入れられない事情もあったりするから浅草同様に難しい。一方で、自分の実家の食堂も弟の千尋が料理人になって後継は安泰かと思ったら、彼に料理の才能がなくて将来に不安が残る。

 それこそ千束の方が料理人としての才能はあるくらい。そんな状況で跡継ぎ問題にも悩みつつ、門前の仲見世の経営問題にも触れつつ、千束と道隆との間に漂う不穏なのか甘いのか判断の難しい関係もあって混乱しそうな状況を、その徳でまとめてしまう長兄で将来の住職の清道の暖かさが心に響く。

 「即今、当処、自己」。自分にとって今の居場所はどこなのか。自分が今できることは何なのか。過去のしがらみだとか、未来の不安だとかを気にしないで今を精いっぱいに考え生きることによって、少し未来は変わりずっと先の未来も変わる。そんな生きざまを教えられる物語。アラサーとなって将来に迷う女性にも男性にも、自分がいったい何をできるかを考え、どこに居場所があるかを考えた上で、それからの道を選ぶ指針になりそうだ。

 もしも清道の言うように、千束が精進料理の食堂を継いだとしてその婿に、本山で精進料理の修業もして来た道隆が入る可能性はあるかというと、今のところはやや薄そう。道隆が実は密かに千束に強い思いを抱いて、いろいろな思いをめぐらせ誘導するようなことをしたのも千束にとってやや引く要因となっている。道隆自身も婿に行くような誘いをその場できっぱり断っている。

 だからこそ、そうした壁を突破していくような物語があって欲しい。まだまだ先行き不透明な仲見世の再興計画の行く末を見定め、料理人の道を諦めた千尋が妻や子供ともどもしっかりとした職に就いて姉へのモヤモヤとした気持を鎮め、そして千束自身が「即今、当処、自己」を目一杯に体現するような物語があって欲しい。それを読んで誰もがきっと、自分自身の「即今、当処、自己」を得られることになるだろうから。


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