世界の涯ての弓

 ここしかない。

 人は生まれ育ち死ぬその瞬間まで、「世界」というただ唯一の場所にしか存在することはできない。そこがたとえ極寒に凍える北の海から灼熱に焼ける南の島、熱砂の踊る西の沙漠から風の吹き渡る東の草原に至るどこであっても、おなじ「世界」であることに変わりはない。人は人であり続ける限り、涯てしなく広がるこの「世界」の上を、肉体は永遠にさまよい続けるよりほか道はない。逃げ場所なんてどこにもないのだ。

 「世界の涯て」など存在しない。だがしかし、存在しないが故にまた永遠の憧れとして「世界の涯て」は存在し続ける。辛いこと、哀しいこと、苦しいことでいっぱいのこの「世界」から逃げ出したいと願う想いが「世界の涯て」をその目に見せる。向こう側に広がる楽しいこと、嬉しいことでいっぱいの「もう1つの世界」そして「ほんとうの世界」をその心に思い起こさせる。

 どうやったらたどり着けるのだろう。もちろん現実の「世界」では、いかなる鉄道も飛行機も道路も海も、存在しない「世界の涯て」へと続いてなどいない。ましてや向こう側へと越えて進むことなどできはしない。

 けれども嗚呼、これが人の奇妙にして不可思議な力のなせる技なのか。物理的越えられない壁を精神はやすやすと越えてしまう。たとえ物理的に肉体はこの閉じられた「世界」に縛り付けられようと、誰もその心までを縛ることなどできない。信じること、信じ続けることによって人は「世界の涯て」を見ることができる。

 林馨は音楽大学を卒業した後、とくに決まった仕事にも就かず日がなブラブラとして過ごしている。唯一の収入源は、ある老人が発行している週刊のフリーペーパー「琴楽」に小さなコラムを「阿馨」の名前で書くこと。ただし1回のコラムで得られる原稿料は10万円と破格で、だからこそ馨は老人が求めるままにバイオリンの腕を磨く、というよりは「弓使い」としての腕前を上げること意外に、無駄な時間を使わずにすんでいた。

 馨と老人が知り合ったのは、まだ学生時代のことだった。学内のオーケストラに馴染めず仲間とアンサンブルを作ってメンデルスゾーンを演奏していた、そのコンサート会場に現れたのが琴老人だった。老人は馨のバイオリンをその場で激しく非難し、ために険悪な雰囲気が流れたが、後日馨のもとに老人からの電話がかかり、先の優雅にして破格な条件でのコラムの仕事が舞い込むことになった。

 端から見れば羨ましい限りの境遇に、けれども馨は決して安閑とはしていなかった。それは彼が学生時代にとものセッションした友人で、卒業後はチェロを携えて世界中を旅し、最近までは香港のオーケストラでチェロのアシスタント・プリンシパルを務めていた太田圭が、木っ端微塵になったチェロを部屋の残したまま失踪してしまったからだ。新聞の報でそのことをしった馨は、矢も楯ももたまらず香港へと飛ぶ。謎の老チェリストを探して消えた太田の手がかりを求めて、返還間際の喧噪と倦怠が包み込む「世界の涯て」に近づいた街、香港をさまよう。

 妄想なのか、夢なのか馨はときおり「世界の涯て」を越えて向こう側にあるらしい街へと迷い込み、阿椰(アーイエ)と名乗る娘と会っていた。彼女と出会う酒場では心地よく懐かしい音楽が鳴り響き、馨の心を強く惹く。老チェリストを求めて消えた太田の向かった先は、あるいは彼が阿椰と出会っている幻想の街なのか。やがてその街「金蓮城」へと道が指し示された時、馨はひとりその場所へ、自分を待っている街へと旅だって行く。

 そんな物語が描かれた「世界の涯ての弓」(講談社、1700円)で、林巧が主人公の林馨に「世界の涯て」を求める旅をさせたのは、紀行家として「世界」をくまなく旅した筆者が、「世界」の無辺さをその肉体に強く実感し、ゆえに物語の主人公に精神を預けて、「世界の涯て」を越えさせようとしたからではないのだろうか。信じるにはあまりにリアルな現実を見続けた人間が、残る拠り所としたのが、フィクションの「世界」だったと考えることはできないだろうか。

 勝手な想像でかつ見当はずれの推論かもしれぬ。がしかし、描かれた物語に仮託して、そこに「世界の涯て」を感じようとする読者がいることだけは紛れもない事実。そんな読者にとって林巧の「世界の涯ての弓」は、信じるための道しるべに他ならない。

 何度でもいうが現実のこの地上に「世界の涯て」など存在しない。「世界」は唯一にして絶対の存在としてあらゆる人々の肉体を縛り、土に還り元素へと分解されようとも、永遠にそこから逃がしてはくれない。だがせめて、心だけは自由でありたい。また自由であるべきなのだ。架空の「世界の涯」から漂って来る音楽が、心の耳へと届いた瞬間、心はいつでも「世界の涯て」をやすやすと越えて、ほんとうの自分がいる場所へとたどり着く。

 ページを閉じ、現実へととって返した肉体が現実の辛苦に苛まれようとも、あの不思議な音色で鳴り渡る音楽を思い出しさえすれば、「世界の涯て」は何度でも現れて、人々を向こう側へと誘(いざな)う。それで幸せなのだろうか? もちろん幸せなはずだ。心が喜んでいるのだから。信じる心は何人たりとも侵すことができない。

 だからいおう。「世界の涯て」は永遠に存在し続ける。


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