さよならピアノソナタ

 07年に20数年ぶりの再結成となった英国のロックバンド「ポリス」で、フロントに立ち唄いベースを奏でるスティングは確か、言われて数週間でベースをマスターせざるを得なかったというエピソードの持ち主だったはず。それにしては、切れ切れにメロディーを奏でたり、ビートを刻んだりするギタリストのアンディー・サマーズの音の隙間を埋め、むしろ全体をビートで引っ張るくらい、パワフルで技巧的なベースを聴かせる。作曲や歌唱だけでなく、演奏でもまがうことなき天才だ。

 それを考えれば、単なる高校生が2週間とか3週間で基本のベース演奏を、ひととおりマスターするくらい難しくはないだろう。難しくはないけれども、挑む相手が超速弾きのテクニックを駆使して、経験のあるギタリストだって振り向かせるくらいの天才少女で、なおかつギターを始めてまだ半年でしかないという、スティングに劣らぬ天才だったりするから勝負の行方は分からない。,

 分からないけれども挑まざるを得ないというのが男の子という存在だ。突っ張る相手をへこませたり、その裏側にある寂しい気持ちを支えてあげたいという気持ちがにじみ出て、あふれ出てほとばしり輝く様が、マンションに引きこもりネットを駆使して事件を解決する美少女が主人公という異色作、「神様のメモ帳」(電撃文庫)シリーズが好評な杉井光による「さよならピアノソナタ」(電撃文庫、610円)には溢れている。

 音楽評論家の父親を持った桧川ナオは、家に転がるオーディオ機器をバラして直すうちに、いっぱしの修理の技術を身につけ今は廃品の処分場で見極め、そこから拾ってきた機器からでも必要な部品を取れるくらいになっていた。その日も“心からの願いの百貨店”と呼ぶ海辺の廃品置き場へと行くと、何やらピアノの音色が聞こえてきた。

 それも音楽評論家の息子として育って、それなりの耳を持つナオにもなかなかの腕前だと分かる綺麗な音色。いったい誰が弾いているのかを見ると、同じ歳くらいの少女が一心不乱に弾いていた。誰、とたずねる間もなく少女はナオに気づき、演奏を聴かれたことを恥じたのか「変態、痴漢」と罵声を浴びせてナオを責め立てる。

 その割には、帰り道が分からずナオの後ろを着いて歩く可愛らしさものぞかせる少女を引っ張り、駅まで行ったものも少女の表面的な怒りは解けた感じがなくその場はサヨナウラ。ところが学校へと行くと、転校生として当の少女がナオのクラスに入って来たから驚いた。

 すでに海辺の駅での別れ際に、少女が12歳で欧州のコンテストに入賞し、若い天才ピアニストとして評判になりCDも出した蝦沢真冬だと知っていて、そしてクラスの皆もすぐにそうだと気づいて注目の的になったものの、真冬は女子とも男子ともうち解けず、以前にナオがこっそりCDを持ち込んでは大音量で鳴らし、音楽に浸っていた空き教室に入り込んでは、手にストラトキャスターを持ちクラシックをとてつもないスピードで弾くようになってしまった。

 居場所を奪われたことへの反発と、そしてピアノではなくギターを弾く真冬の態度にも興味があって、ナオは真冬の所に通うものの一向に乗ってこない真冬。ならばと怪我をして柔道を辞めてドラムを始めたナオと同級生の少女が慕う、やっぱり女性で民族音楽研究部なる同好会を作った先輩から手ほどきを受け、ベースを手にして真冬の速弾きに挑戦し、勝利を収めて部屋を取り戻そうと目論んだのだが……。

 天才指揮者の娘として生まれ、天才ピアニスト少女と騒がれながらもその道に迷い、体にも異変を抱えて悩む真冬に比べると、音楽評論に没頭する父親に愛想を尽かして母親は出ていってしまったものの、そんな甲斐性なしの父親との仲は決して悪くはないナオ。ときおり父親の評論の仕事を編集者には内緒で手伝うこともあったりと、それなりに充実した日々を送っている。

 だらだらと続く日常に流されまみれながら生きるのはとても楽だし簡単だ。愛想がなくわがままで身勝手で、数ヶ月後にはどこかに行ってしまうと自ら宣言している少女なんか放っておくのが今時の低体温な若い人には正しい振る舞いなのかもしれない。けれどもそれでは味気ない。どうせどうにもならないんだったら、その時に何かやった方が絶対的に面白い。

 悩んでいる少女がいたら助けようと頑張る。無謀な勝負でも派手にいに挑そしてんで散る。やらなきゃいけない時にはやるんだという気持ちを、ナオの言葉と行動が抱かせてくれる。なるほどこれが青春か。青春という奴か。そんな物語に絡む音楽や楽器に関する情報や、音楽に挑む情熱といったものが気持ちを熱くしてくれる。若い読者ならその場で貯金を下ろして楽器店へとベースを買いに走りたくなるはずだ。

 ただし3週間後にスティングくらいになるには相手が必要。初めて半年でショパンやベートーヴェンを驚異的な速度で弾く少女を見つけに、海の廃品置き場へと通うのだ。


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