最期の部屋
展覧会名:最期の部屋
会場:銀座教会
日時:1999年6月7日
入場料:300円



 銀座の数寄屋橋交差点から東映会館に向かってちょい歩いたところにある教会の1階ロビーでちょっぴり衝撃的な写真展が開かれているんでのぞく。そこに写っているのは拘束用のベルトが付いたベッドだったり手足に巻くバンドがセットになった椅子だったり密閉可能な部屋だったり足下がパコンと開く台だったりするけれど、人は1人も写っておらず部屋はチリひとつなく清められベッドも染み1つついてない無機的な冷たさを放っていて、その部屋そのベッドその椅子の上で失われた数多くの人命の、ベルトコンベアに載せられパツッと奪われて行くあっけなさが写真からにじみ出ていて、しばし目を惹き付けられる。

 撮影はルシンダ・デヴリンで今はニューヨーク州立大学で教鞭も取るフォトグラファー。写真展の主催はアムネスティ・インターナショナル。勘の良い人そちらの方面に関心のある人だったら多分気付いただろうこれら部屋なり椅子なりベッドとは、つまりはガス室であり電気椅子であり薬物注射台。そういずれも米国内の刑務所で実際に使われている死刑のための施設で、写真展「最期の部屋」は死刑制度が今なお活発に人命を奪っている米国の実状を、そこで用いられている施設なり道具のいかにも機械然としたイメージを、写真というリアルに現実を写し取れるメディアを介して人々に見せることによって、制度が持つ非人道性を広くアピールする目的の元に開かれている。だから主催はアムネスティって訳ですね。

 例えば何故かは知らないけれど木製のものが多い電気椅子はガランと他に何も置かれていない、せいぜいが部屋の隅の机の上に電話機が何台か並べられている程度の見るからに空疎な空間に、ポツンと置かれて人が縛ら高圧電流を流され鼓動を停止させるその瞬間を待っている。薬物を注射するためのベッドはどう見ても人の命を救う手術室のような空間に据え付けられ、ベルトの金具を輝かせながらそこに縛られ薬物を体内に送り込まれて苦悶かそれとも昏睡のうちに死へと至る人が来るのを待っている。そして絞首台。19段ある階段の上の櫓は床が抜け落ち丈夫から滑車を経てツルされたロープが下までダラリと下がっている。そこにぶら下がった人はいったい過去に何人か。そしてこれから釣り下げられる人は何十人か。

 死刑制度についての意見はただいま明確に持ち合わせている訳では決してなく、ただ冤罪のもとに執行される死刑の取り返しのつかなさだを強く認識している程度で、これをもって今日ただいま死刑は残酷だからやめるべきだと声高に叫ぶ気分にはなっていない。ただ椅子にしてもベッドにしてもガス室にしても絞首台にしても、カラーでカチリと描き取られたそれらモチーフの、あまりの装置ぶりがひどく気に掛かる。人間が人間を裁き処罰するとは言いながらも、現場では処罰される人の怯えも処罰する人の迷いもすべてが機械装置を駆動させる流れの中に埋没し、例えば自動車工場でエンジン部品を組み付けるが如き感情なき環境の中で、執行されている状況があるとすれば、それはなかなかに恐ろしいことだとは思う。

 死体の1つすらも写さずに死刑への意見を意ってしまう写真家の対象の選び方はさすがというか。加えるにこういった結果死刑廃止を呼びかけるような捉え方で展示されることが分かっているだろう写真を、それでもちゃんと撮らせる米国の厳格な情報公開への意識の高さにも見習うべき点が多い。日本だったら東京拘置所の13階段を果たして法務省が撮らせるか。死刑台の開いた床を垂れ下がったロープとともに撮らせるか。もちろん公開したからといってその死刑を認めるというスタンスにいささかの変化もなく、むしろ制度への確固たる自信があればこその公開だろうと言えるけど、受け取る側にとっては1つでも多くの判断材料があるに越した事はないからね。どちらに転ぶにしても良い仕事です。
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