最 悪

 戦争が起こって両親は殺され、食べる物も無く飢えに苛まれて泥のなかをのたうちまわる。大地震で家は倒壊し家族は全員圧死、自らも半身不随の重傷を負って今も病院のベッドに横たわる。どうだろう。

 まだ甘いか。だったら突如発見された巨大彗星が刻一刻と地球に近づき、大混乱の世界だが自分が乗れる脱出ロケットは1つもない。巨大なトカゲと巨大なカメの怪獣が、自衛隊の防戦も虚しく東西からビルを蹴倒し河を乗り越え湖を飲み干して迫り来る。これだったら良いだろう。誰も何も文句を差し挟まない。「最悪」だ。そう声高に訴えても。

 だが、下請けの下請けのさらに下請けのようや零細鉄工所の主人が直面したのは、工場の騒音がうるさいと向かいのマンションの住民から訴えられ、作った部品に不良品が出て発注先から弁償させられ、銀行から融資を断られて借金ばかりが嵩み、社員は逃げ暴力で訴えられ娘が短大に行きたいと言い出したという災難だった。

 そして銀行の窓口を担当する女子行員に降りかかったのは、参加しなければ支店長からネチネチと理由を聞かれて虐められるため、仕方なく出席した組合の旅行で行ったロッジで、事もあろうに支店長からセクハラを受け、そんな支店長を追い落とそうと企む一方の勢力の謀略のネタにされて怪文書が出回り、彼女を指名して頻繁に支店を訪れていた大口預金者の少し惚けた老人に付きまとわれる災難だ。

 さらには名古屋から出てきてパチンコとカツアゲでその日暮らしをしている青年に襲いかかったのは、トルエンの盗みに借りてきた使った車が実は暴力団の持ち物で、それを目撃されたことで暴力団事務所から巨額の金銭を要求され、けれども一緒に盗みに入って暴力団から脅された仲間に金庫破りで得た詫びの為の金を持ち逃げさられ、腎臓(じんぞう)を売れ、指を詰めろ、女を沈めろと脅されているという災難。そこで考えてみよう。これは「最悪」だと言えるのか。先に挙げた戦争や天災や彗星や隕石に比べて大きな危機だと言えるのか。

 実は言える。そして声高に「最悪」だと言って決して異論は出ない。奥田英朗の新作「最悪」(講談社、2000円)を読んだ人なら、彼らと彼女を襲った災難に、我が身を重ね合わせた時を想定しておそらくは同情と、その裏返しの嫌悪を覚えて身震いしたに違いない。家族を失う。仕事を失う。誇りを失う。命を奪われるでもない、ましては人類の未来を失うでもない宇宙的には取るに足らない出来事でも、人はそれを人生の上で一世一代の「最悪」だと感じてしまうのだ。

 滅多に起こり得ない災難より、もしかしたら明日にでも自分が巻き込まれるかもしれない災難。過ぎ去ってしまえば、一生の終わりに振り返ってみれば、たぶん笑って「あんな事もあったなあ」と思い出せる出来事でも、直面したその時は、前へと1歩も進めない巨大で分厚い壁となり、心にズシリとのしかかる。やり場のない気持ちに苛まれて激しい震えに襲われる。そして叫ぶ。「最悪」だと。

 主人公となる鉄工所の主人と、銀行の支店の女子行員と、パチンコとカツアゲが収入源の青年が巻き込まれていく3者3様の災難が、やがて1つに収斂していく様には、小さなゆらぎが大きな震えをなって読者を惑乱して楽しませる、エスカレーションする物語の醍醐味がある。そこで一気にスラップスティックへと逃げ、物語を地球規模とは言わないまでも1つの国を巻き込むくらいの事件へと発展されれば、それはそれでユーモア小説として受けただろうし、読み終えた時にカタルシスを得らて溜飲を下げられただろう。ややもすればありきたりの、救いが足りない本書の展開は、その意味で物足りないと感じられても仕方がない。

 だが、奥田英朗はまるで寸止めのようにリアルな範囲で物語を止める道を採った。やってしまった罪悪感に苛まれる鉄工所の主人、妹の身を案じるばかりに人を殺そうと決心してしまう女子行員、そんな2人の尋常ではない心のほどけぶりを見て、盗んだ金すら投げ出したくなる青年の、3者3様のリアルな「最悪」を秀逸に描いた。だからこそ読者は居心地の悪さを覚え、身に染みていっしょに叫び抱くなるのだ。「最悪」と。

 前作「ウランバーナの森」から1年余。エッセイ集「B型陳情団」の元となった連載から数えれば10年以上の文筆家としてのキャリアを持ちながら、新人の肩書きを再び背負って現れた奥田英朗が、さて来年も三度目の新人を惹句に小説の世界に登場するのか。いや違う。断じて違うと「最悪」を読んだ人は思うだろう。その身を撫で回し、毛穴に針金を差し込まれるような怖さに身をよじって訴えるだろう。三度はない。次はこう呼ばれるはずだ。「最悪」の奥田英朗が却って来たと。


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