砂漠に吹く風


 古いモノクロームの写真のなかで、犬に追いかけられたり、木に登ったりして遊んでいる少年がいる。三角形のコーナーに4隅を挟まれて、アルバムに整理されたそれらの写真を見ながら、僕は犬に追いかけられたり、木に登って遊んだりした思い出にひたる。サラサラとした犬の毛並みを、木の幹のゴツゴツとした肌触りを、昨日の出来事のように手の中に感じる。

 けれども、そんな思い出があった翌日の出来事、翌年の出来事を、僕はまったく覚えていない。ぽっかりと抜けた記憶が次第に鮮明になって来るのは、それから何年も経って、保育園に通うようになった頃からになる。僕は写真の中の出来事を、実際の記憶として追体験したにすぎない。その写真が例えば合成写真で、犬なんか飼っておらず、庭に木なんかなかったとしても、信じているうちは、あるいは信じたいと思っているうちは、偽りの記憶も真実の記憶であり続ける。

 明智抄が「サンプルキティ」に続いて送り出すSFコミックの最新作、「砂漠に吹く風」(白泉社、400円)に登場する「サイコノヴェリスト」の力石ジョイは、10歳まで培養槽の中で育てられた「キャンセルベビー」だった。さわやかな風が吹き、リンゴの花が咲きみだれるアンダーソンで、両親の愛情をいっぱいに受けて育った子供の頃の思い出が、まったくの偽りのものであったことを、深い眠りから目を覚た瞬間、力石ジョイはその肉体を持って知らされる。

 精神と肉体との乖離に悩まされつつも、偽りの思い出を糧にして、人々に偽りの記憶を振りまく「サイコノヴェリスト」として成功を収めつつあった力石ジョイに、幻想をより強固なものにしようとする「キャンセルベビー」ならではの能力を役立ててもらいたいといって、1人の男が接触して来る。男は全宇宙に優秀な遺伝子を持ったクローンとしてばらまかれている「マイク=スミス」のオリジナルと名乗り、個々の記憶を持たない悩みから、次々と自殺していくクローンの「マイク=スミス」たちを救う「サイコノヴェル」を書いてくれるよう、力石ジョイに頼む

 偽りの記憶に不信感を抱きつつ、一方でそれを真実として守りたいと強固に願う「キャンセルベビー」も、偽りでもいいから記憶を求めてやまない「マイク=スミス」も、ともに記憶というものが人間の存在感に強い影響を与えていることを示している。三角コーナーで止められた写真、ただの記録にすぎない写真を見て、それを頭の中で記憶として変換している僕も、ミッシング・リングとなっている幼児のころの記憶を取り戻すことで、存在している確かさを得ようとしているのだ。

 毎度毎度、特異なキャラクター造形を見せてくれる明智さん。「砂漠に吹く風」では、力石ジョイの生み出した「サイコノヴェル」のキャラクターである「黒い髪の少女」にあこがれる、スプラッターな「サイコノヴェリスト」のジャングル・オービン先生が、抱腹絶倒の大活躍を見せてくれる。精神生命体「ふぉん」によってとり殺されたオービン先生が、風となって力石ジョイに仕掛けるイジワルの数々は、涙なくしてはとても読めない。

 話は「マイク=スミス」のオリジナル「シロッコ」の過去を探りはじめる場面で次巻へと続く。「マイク=スミス」が生まれた理由や、「シロッコ」と精神生命体「ふぉん」との邂逅などが語られていくことだろう。「うふふ」なオービン先生の活躍も密かに期待しつつ、今は次巻の発売を、ただただ待ち続けるだけである。


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