映画『この世界の片隅に』レビュー


戦争の苦悩が日常にとけ込んでしまう異常、それでも毎日を懸命に生きていく人々の強さを描く

 ひとつの奇跡の誕生に今、私たちは居合わせている。

 こうの史代さんの漫画を原作にして、『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年公開)の片渕須直さんが監督した長編アニメーション映画『この世界の片隅に』が2016年11月12日に公開となる。構想が持ち上がってから実に6年。途中で企画が途絶える可能性もあったが、スポンサーを納得させるため、クラウドファンディングでパイロットフィルムを作る資金を募り、3900万円以上を集め3374人もの応援を得て、製作が本決まりとなった。

そうした経緯も奇跡だし、かつてない感動をもたらしてくれる作品に出会えるというのもやっぱり奇跡。幾つもの奇跡に包まれた作品が、映画『この世界の片隅に』だ。

 ストーリーについて簡単に書くなら、広島市の海寄りにある町、江波に暮らしているすずという少女が主人公。厳しい兄や可愛い妹、そして父母や親戚に囲まれながらすくすくと育って18歳になっていたすずさんは、軍港や工廠がある呉の北條家に嫁いで長男の周作の嫁になる。

 時代は昭和19年。日本は戦争のただ中にあって、北條家での生活も配給がだんだんと乏しくなり、やがて空襲も始まってすずさんの周囲に悲しい出来事が幾つも起こる。そして昭和20年8月6日。広島へ原爆が投下され、悲劇はさらに濃さを増す。そうしたできごとは、これまでも歴史として語られ、小説や映画として描かれ、漫画にもなって今に伝えられてきた。

 『この世界の片隅に』も同様に、戦争によってもたらされた惨劇を嘆き、離別に泣ける映画かと言うと、一面では当たっているもののすべてではない。昭和の時代ならまだ普通だった、女性が恋愛とは切り離され、見知らぬ男の家に嫁として迎えられ、早朝から夕方まで働きづめに働く姿に、同情して泣けるといった部分もあるが、それも一側面に過ぎない。

 この作品で浮かぶ心底からの感涙は、実は嬉し涙だ。映画の最後に近い場面で繰り広げられる救いのドラマ。そこで得られる喜びに、グッと涙がこみ上げてくる。

 物語のラストシーンに描かれるある出会いが、離別に泣き理不尽に憤って呆然としていた心に涼風をもたらして、新しい未来をここから始めようといった気にさせてくれる。戦争という恐ろしくて残酷なモチーフがふんだんに繰り出される映画だろうと思い込み、敬遠するならそれは間違いだ。良かった。本当に良かった。そんな嬉しさを思い抱いて劇場を後にできるところに、この『この世界の片隅に』が持つ価値がある。

 戦時下の描写も、怒りや憤りで目を向けられないということはない。すずさんという女性がいて、厳しい毎日でも淡淡と生きている姿に触れているうちに、そうした日々が苦にならなくなってしまう。ながめていてほっこりとするキャラクター。生み出したこうの史代さんの筆も凄いし、そんなキャラクターを表情も仕草も豊かに描いて動かしてみせた片渕須直監督らアニメーションのスタッフも凄い。

 もちろん、声を演じたのんさんも凄くて素晴らしい。言うまでもなく本名を能年玲奈さんという、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』でヒロインを務め、国民的な人気を得た女優のことで、そののんさんが初めての主演声優をこの映画で務めた。印象は『完璧』の一言。冒頭からほとんど喋りっぱなしで、彼女のモノローグによって引っ張られていく映画とも思えるくらいに語っている。そうした語りも、キャラクターに沿った演技もまるで違和感がない。本人がすずさんになりきって、地を見せているだけなのかもしれないとすら思えてくる。

 ぼおっとしてとぼけた雰囲気もすずさん、ときおりのぞかせる静かな怒りもすずさん、激しく怒って嘆き叫ぶ様もすずさん。のんさんという存在がイコールすずさんとなってそこに現れる。『あまちゃん』の熱烈なファンは、天野アキとしてののんさんを重ねて見始めるかもしれないが、すぐさますずさんという存在に変わって、そのまま最後まで連れて行かれる。見終わった時にはそこにすずさんしかいなかった。そう感じるはずだ。絶好の配役を、片渕須直監督の願うままに得られたというのも、またひとつの奇跡だろう。

 のんさんが演じるすずさんによって、ほんわかとした空気の中で繰り広げられる家族の日常が、だんだんと厳しくなっていってもなお、それは仕方が無いことだと思わされてしまうところがある。実はこれがくせ者だ。空襲の暴力であり、離別の悲劇であり、離散の苦悩といったものを、あの時代のあの状況にあって至極当たり前のことと感じてしまう頭になってしまったのかもしれないから。そういう風に馴らされてしまった果て。終戦を迎えて日本の降伏を告げる玉音放送を聞いたすずさんが見せる激しさに、誰もがハッと目を覚まされる。

 どんな苦労ものほほんと受け入れていた毎日が、実は非日常だったと分かって、これまで何のために苦労をしてきたのだと憤った激情が、激しく外へと吹き出す。その姿を見て、理不尽なことが当たり前になってしまっている今を思い起こして考える。本当の日常とは、本来の幸福とは何なのだろうと問い直す。そんなきっかけを与えてくれる映画だ。

 それでもやはり、いつものほほんとしてドジなところもあるすずさんの可愛らしさに見惚れてしまうのは否めない。あの時代に生きた人たちの丁寧な暮らしの再現があり、表情や仕草の描写があり、フッと心を癒やされるコミカルなシーンが連なって、気持ちをスクリーンへと引っ張り続けられる。129分に及ぶ長さがありながらも、短いとすら感じさせられる。そして見終わって思う。素晴らしい時間をありがとうと。語りたくもなる。みなもそんな時間に触れに劇場へと足を運ぼうと。

 語りたくなって、自分でもまた見たくなって、そしてまた語ってしまう連鎖が、この映画を世の中へと広めていく。永遠に語り継がれる映画へと押し上げる。そんな奇跡が誕生する様を、遠くから眺めているだけではつまらない。あなたも参加して、奇跡を生み出す存在になろう。(タニグチリウイチ)