アラーキーレトログラフス
展覧会名:アラーキーレトログラフス
会場:原美術館
日時:1997年8月20日
入場料:1000円



 一部屋しかない街の小さなギャラリーで観ようと、地下から地上三階まで届く吹き抜けのを持った巨大な美術館で観ようと、荒木経惟は荒木経惟でしかない。何万円もする豪華な写真集で見ようと、ペーパーバックの粗末な写真集で見ようと、そしてパソコンのモニターに映し出されるデジタル写真集で見ようと、荒木経惟はやっぱり荒木経惟だ。

 女であれ花であれ街であれ空であれ、荒木経惟が撮ればそれは荒木経惟の世界になってしまう。どこで撮ってもなにを撮っても、そこに写し出されているものは荒木経惟以外の「なにもの」でもない。いかな空間であろうと、いかな素材であろうと、持てる淫靡で猥雑で精力的なパワーによって、すべてを荒木経惟の世界へと染め上げてしまう。

 そんな確固たる世界を持ったアーティストを扱う時に、美術館ならキュレーターの、写真集なら編集者の受けるプレッシャーたるや、相当な重さと強さを持って迫って来ているに違いない。もちろんそれだけ挑み甲斐もあるのだが。

 原美術館の「アラーキーレトログラフス」は、その展覧会名が示すように、荒木経惟の過去の作品群を中心に幾つかの新作を交えて展示する、回顧展に近い雰囲気を持った展覧会だ。並べられた作品も、前に展覧会で見たことがあったり、雑誌や写真集でお馴染みの写真が多く、もう一度実物に出会えたことや、初めて実物に出会えることの喜びを、まずは味わうことはができる。

 もっとも、どこで見ようと荒木の作品である以上、実物に出会う喜びにはたいした意味はない。制約の多い展示スペースで、エッセンスというかさわりだけを抽出したような作品を観るよりも、圧倒的な枚数を収録した写真集を見ていた方が、はるかに多くのメッセージなりエネルギーを得られるだろう。

 ならば、何故に美術館で開かれる荒木経惟の展覧会に意味があるかと言えば、それは美術館のキュレーターと作者である荒木経惟が、数多くの制約も交えて存分に格闘した結果生まれたメッセージを、目だけではなく全身を使って感じることができるからだ。「モダン」という古めかしい言葉が良く似合う原美術館に並べられた「荒木経惟」からも、その格闘の軌跡を感じることができた。

 ゆるやかに婉曲した廊下の中央部分に、廊下にそって横に長い大広間に続く入り口がある。廊下の入り口と正対する壁に掲げられたのは、「荒木経惟写真全集」の表紙に使われていた涙を浮かべた少女のアップ。これはと心躍らせてしばし見入り、それからきびすを返して大広間をのぞくと、正面に物干しに下げられた赤いシャツがひときわ目立つ、一枚のカラー写真が貼ってあった。

 綺麗な赤だと思いながら、ふと両脇に目をやると、左に茣蓙(ござ)のような敷物の上に横たわる老婆の写真が一枚、右には腕にイレズミをした老人の同じく布団に横たわる写真が一枚。どこかで見た写真だと考え、間もなくそうだこれは荒木経惟の母親と、そして父親のともに亡骸(なきがら)ではなかったかということに思い至る。

 再び中央の赤いシャツの写真に視線を据えて、両脇の良心の亡骸を俯瞰(ふかん)しながら、両親の亡骸を写すことによって、写真家としての強靭な精神を養って来た荒木経惟が、見に纏(まと)っていた世俗的な赤い衣を脱ぎ捨てて、さらなる至高高所へと向かおうとしているのではないかと、そんな想像をしてみたくなった。振り返るとじっとこちらを見据える少女の顔。さながら天使の役所とでもいったところか。ハマり過ぎの感もあるが、そんな演出を臆面もなくやってしまえるのも、荒木経惟ならではの役得だろう。

 2階には亡き妻、荒木陽子との思い出を綴った「センチメンタルな旅/冬の旅」から抜粋された写真が緑に塗られた3方の壁に掲げられた部屋があり、たぶん「エロトス」だろうか、赤く塗られた壁に巨大な唇と女陰と花が写った写真が掲げられた部屋があり、それからいろいろな、本当にいろいろなものを写した写真が掲げられたちょっと広い部屋があった。壁の色とのマッチングとか、配列の妙とかいろいろと格闘のあとも感じられたが、1階の3枚続きの両親と赤いシャツ、正対する少女のこの緊迫感あふれる空間に触れた後では、2階はややコンセプチュアルな趣を持った「回顧展」以上の意味は感じない。

 ただ、2階へと向かう階段の踊り場には、12枚から成るガラスがはめ込まれて、通常は木漏れ日の光を採り入れているが、驚くべきとこに展覧会では、そこにおよそ八百枚ものカラーポジが、寸分の隙間もなく張り付けてあって、フィルムを通してそそぎ込む光の美しさに驚き、しばし見入ってしまった。赤や黄色や緑の断片には、それぞれに女優だったりヌードだったり街だったり空といったものが写っているのだが、下から見上げたその様子は、木漏れ日の弱い光に照らされて、さながら教会のステンドグラスを思わせる煌(きら)めきを放っていた。会期の終わり近く、晩秋の夕日が西から斜めに差し込む時期が来たら、また行って見てみたい気がしている。

 1階の大広間に続くテラス風の半円の小部屋に、1枚だけ展示してあった少女の写真にも惹かれるものがあった。チマチョゴリ風の衣裳と顔立ちから、朝鮮系の少女ではないかと想像したが、背後に壁があり、その後ろに街路樹があり、そのまたすぐ後ろにジュラルミンだか鉄だかの壁が立ちはだかっているという構図に、撮った本人がどれだけ意識していたのか、撮られた少女がどこまで意識していたのかはともかくとして、壁と壁に挟み込まれて窮屈で、それでも強く生き抜いている木の強さを、少女の強さを重ね合わせて考えてしまった。


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