落涙戦争

 どんな時に人は泣くか。悲しい時。これは泣く。痛い時。やっぱり泣く。嬉しい時。泣くこともある。寂しい時。弱虫だったらすぐに泣く。たいていの時に人は泣く。泣いて感情を露わにする。

 感情とは関係なしに、泣くこともある。花粉が目に入ったとか。催涙ガスにまかれたとか。それは眼球を守ろうと、涙が滲んだだけのこと、つまりは機能で、感情の発露とは少し違う。それでも、目から塩からい水が湧いてくることで、逆に感情が刺激されて、泣いた気になることも、人にはある。

 感情にせかされて泣くことも、涙を流して感情を揺さぶることも、だから結果に大きな違いはない。問題は、そのどちらもできない人を、どうやったら泣かせることができるのか、ということ。京都の大学に通う大学2年生の阿弥陀寺翔太がそんな1人。生まれてずっと泣けずにいて、いつもほんのり、笑いをたたえた顔で生きてきた。

 そんな翔太の母親で、阿弥陀寺奈弥陀という女性は“泣かせ屋”としてそれなりに知られた人物で、一種の心理カウンセラーとして活躍し、稼いでは翔太を京都に下宿させ、学校に行かせていた。そんな母親をもってしても、翔太が涙を流すようにはできなかった。せっかく得た春香という彼女に振られても、翔太は驚くばかりで泣けずにいた。泣けないことが別れにつながったのかもしれない。

 そんな鉄壁の涙腺を、ゆるませるべく現れたのが裏の泣かせ屋の面々。まずモズという名の泣かせ屋の名代として、ホトトギスと名乗る少女が翔太のところを訪ねてきて、1週間後にくる20歳の誕生日までに、誰でもいいから彼を泣かせた人に、3000万円の賞金が出るようになったと告げる。こうして森田季節の「落涙戦争」(講談社、1300円)のタイトルにある通り、翔太を泣かせる泣かせ屋たちの戦いの物語が。

 ホトトギスも最初に翔太を泣かせようとしたものの、新米らしく賞金を山分けしようと言っただけで、効果はゼロ。大津ミカゲという名のイリュージョニストが現れ、誰もが滂沱する映画をみせつつ、周囲から泣け泣けと責め立てても、翔太に一切の変化は見られない。ホトトギスの師匠で、元殺し屋というモズが現れナイフをつきつけ、死の恐怖を与えても、やっぱり翔太は泣き出さない。

 そこらかも次々に現れる謎めいた人物たち。親切そうな住職もいれば、サングラスをかけた強面の男もいる。サングラスの男は泣かせ屋とは関係ないと言い、翔太にお前は母親によって人生を売られたと告げ、サークルからも学校の友達からも翔太を隔離するように立ち回って、彼に壮絶な孤独感を与える。なおかつ彼が売られた証拠を示し、絶対絶命のところまで追い込んでいく。

 普通の人だったら泣いている。悲しくて。苦しくて。痛くて。怖くて。寂しくて。泣いて喚いてのたうち回ってしまうだろう。そんなどん底にちょっとした幸せが示されたら、今度は嬉しさに泣くはずだ。翔太はどうだったか。その運命は。ページを繰る手が早まって、翔太の行く末に激しく関心が向かう。想像の表情の目元から、涙が滲む瞬間が本当に来るのかと心を沸き立たせる。

 と同時に、悲しかったり、苦しかったり、痛かったり、怖かったり寂しかったり嬉しかったりして泣く自分たちの涙の価値を考える。それは真剣か。ただの反応か。泣きたくても泣けないうちに、泣きたい気持ちを忘れてしまった翔太の心に次々と刺さる、泣かせ屋たちの泣かせようとする攻撃の、どれが本当に翔太にとって意味のある涙を引っ張り出そうとしたものなのか。そこで涙が流れたとしても、価値ある涙なのかどうなのか。

 エンディングに流れるものがその答えだ。価値を持ち、意味を持って翔太を喜びの中に振るわせる。物語を読み終えた人たちにも、感動という感情を与えて安心の中に魂を踊らせる。

 映画で翔太を泣かせようとした、イリュージョニストの仕掛けすら陳腐に思えるくらいに、巧妙で壮大で入り組んで、裏の裏のそのまた裏まで手が入った、翔太を泣かせようとする泣かせ屋たちの策略が、驚きの連続を与えてくれる。読んでいてまさかそこまでと思い、さらにそうなのかと思って、呆然とする人も少なくなさそうだ。

 そんなエンターテインメントとしての面白さと、泣かせ屋という設定の目新しさを要素に入れつつ、あくまでも本筋は泣くことの意味と価値。翔太にめぐり来たものを噛みしめ、自分を省みて感じよう、どんな時に自分は泣くのかを。


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