ペロー・ザ・キャット全仕事
Toutes les oeuvers de Perraulet Le Chat.

 猫は自由を意識しない。だから不自由を恐怖しない。猫にとって自由は絶対なもの。存在そのもの。存在し続ける限り猫は自由であり続ける。自由を喜ぶこともなしに。

 人間は自由を意識する。そして相対としての不自由を恐怖する。だから自由な猫になりたいと願う。けれども自由を意識した猫は猫ではない。恐怖におびえる猫が猫であるはずがない。人間は猫にはなれない。人間として不自由を恐れ続ける。だからこそ自由を喜べる。

 吉川良太郎の「ペロー・ザ・キャット全仕事」(徳間書店、1600円)は、猫になりたい人間の願望を刺激する活劇だ。そして猫になどなれない人間の絶望を呼び起こす喜劇だ。時は少しだけ未来。所はたぶんヨーロッパ。稀代の経営者にして稀代の犯罪者、パパ・フラノが支配する企業帝国「パレ・フラノ」に暮らす青年ペローは、行き着けの質店でエジプトの旧秘密警察が残したという極秘プロジェクトを手にいれる。

 エジプトの死を司る神「アヌビス」の名前を冠したそのプロジェクトが狙っていたのは、人間と違って様々な場所に容易に入り込める動物に、自分の視覚・聴覚ほかあらゆる感覚を転送、言い換えれば幽霊のように憑依して、動物になりきって行動できるようにすることだった。わずか27フランでその「アヌビス」を買ったペローは、「犬のように群れない」からと猫を憑依する対象に選んで改造を施し、そして猫に感覚を移した。

 ペローは思う。「吾輩は猫である。人間の宿命を解脱した最初の人間にして、華麗なるのぞき魔の」(19ページ)。彼は猫になった気でいた。自由になった気でいた。けれども猫になどなれなかった。猫になどなれるはずがなかった。

 要人の寝所へとまぎれ込み、睦言の声を拾っては強請りを行って金を稼ごうとしたペローの企みは、街を支配するパパ・フラノのファミリーの知るところとなり、ペローは生命と引き替えに「アヌビス」を自分もろとも差し出す。そしてパパ・フラノに使える幹部の下、ファミリーを脅かす勢力の探索と排除に精を出すよう強要される。

 外人部隊で活躍したものの部下を失い今は教官を務める軍曹の下で、ペローは訓練を受けスパイとしての腕を磨く。ファミリーを脅かすエジプト秘密警察のエージェント兄妹の、1人を猫の姿で首を噛みちぎって倒す。やがてパパ・フラノのファミリーを内部からゆるがす陰謀が明るみに出て、ペローは複雑化する図式の中で権力者の思うがままに働かされる。

 自由でありたいと願い、自由な猫になろうとして、不自由に縛られ、不自由に恐怖する犬になってしまったこの悲喜劇。それはたぶん、猫は自由だというペローの思いこみが招いたものだ。

 猫はのぞきなどしない。絶対の存在である猫にとって見えているものもまた絶対。そこに価値などない。のぞきなどという相対的な価値観に根ざした行為をしようとした時点で、猫はすでに猫ではない。だから捕まり、利用される羽目になった。

 終章。ペローは形だけならほぼ完全な猫になる。首輪につながれ若干の不自由をなげきながらも「猫の意思まで飼い馴らすことはできない」(360ページ)と完全なる自由の脱出を夢見ながら昼寝をする。けれどもおそらくその願いはかなわないだろう。完全な自由のように思えても、心に巣くった不自由への恐怖は拭えない。

 行動だけは人間よりも融通が効く姿をした、けれども魂はれっきとした人間として、ペローは生き続けることになる。ペローは思うべきだった。「吾輩は人である。人間の宿命から解脱できなかった人間どもの1人にして、醜悪なるのぞき魔の」。「ペロー・ザ・キャット全仕事」はその意味で、猫になろうとして、猫になどなれなかった人間の滑稽さを描いた喜劇だといえる。

 けれども同時に、人間であり続ける素晴らしさを唄った讃美の書でもある。絶対の自由を生きる猫に自由を喜ぶ意識はない。不自由を恐怖できる人間だからこそ自由を意識し喜べる。

 ラスト。ペローはすこしだけ本当の猫に近づく。「人間のことは人間同士でけりを付ければいい。ぼくの知ったことじゃない」(362ページ)と、猫としての絶対の自由さを垣間見る。そこから先にペローが歩んだ道は分からないけれど、願わくば猫になどならないで欲しい。猫の姿をした「人猫」として、自由であることの喜びを感じさせ続けてもらいたい。人間としてのそれが、人間ならではの希望である。


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