パヴァーヌ
Pavane

 歴史を考える時、「もしも」という言葉を誰でも必ず思い浮かべる。「もしも関ヶ原で石田三成の西軍が勝っていたら」「もしもケネディが暗殺されなかったら」といった具合に、挙げはじめればそれこそきりがないくらい幾つもの歴史の「もしも」を誰もが持っている。

 「もしも太平洋戦争で日本軍が勝っていたら」といった「もしも」は、一面であの軍部独裁政権下にある住み難い世の中が今も続いている可能性を類推させる。けれども一面では、日本が世界を席巻している姿も浮かんで優越感をくすぐられる。あの当時の戦力なり資源なりを考えたらそうなった可能性は皆無だし、戦後50余年を日本が1国で世界に屹立し続けられた可能性も小さい。それなのにやっぱり多くの人が「もしも日本があの戦争で」と考えてしまいがちなところに、歴史を自分の都合だけでしか見ない人間の高慢さがある。

 「もしも英国のエリザベス1世が早くに暗殺されていたら」。キース・ロバーツの「パヴァーヌ」(越智道雄訳、扶桑社、1429円)は、そんな歴史の上に成り立った近現代のヨーロッパが舞台になった「もしもの世界」の物語だ。カトリックの頚城(くびき)を脱して対立し、宗教革命を呼び産業革命を引き起こして本土のみならずヨーロッパを、北米を、アジアさえもその版図に収めることになるはずだった英国。けれどもエリザベス1世の暗殺によって「パヴァーヌ」の世界では英国が世界に覇を唱えることはなくなり、カトリックの力が世界を支配し続ける。

 そんな世界の1968年を舞台にした第1話で描かれているのは、内燃機関が発達しなかったため、未だに主力として用いられている蒸気機関車で運送業を営んでいるストレンジ家の青年が、マーガレットという名の女性に告白してふられてしまうエピソード。1人寂しく家路へと辿る青年は、今は「夜盗」の一味となっていたかつての友人を貨車もろとも吹き飛ばす。

 以後、電信が発達しなかった世界で最大の通信手段として使われている信号塔の上で、腕木を操作して通信を伝える信号手になった青年が、不思議な少女と出会って雪原へと消えていく不思議な話、突如として目覚め、カトリック教会に逆らって反乱を呼びかける修道士の話などが挟まって、ストレンジ家の子孫が古い権威をうち破る展開へと進む。

 こう見ると、「パヴァーヌ」に描かれている「もしもの世界」は決して楽しいものではない。誕生して以来最大の繁栄をおう歌している現代の人類の目から見れば、優越感を擽られもしなければ自分にとって都合良くもならない、来なくて正解だった歴史だろう。

 けれども読み込むうちに、「パヴァーヌ」が示している「もしも」は、もしかすると来てくれた方が正解だったのではと思えてくる。教会による抑圧はなるほど表面上は決して人間を豊にはしていない。科学も工業も衣料も発達していない世界で人間は王侯と平民といった具合に明確な身分制度によって分離され、平民は額に汗して働き、病気にかかればあっけなく死んでいく。けれども山河には自然があふれ、人間たちは生きている実感を苦労とともに今以上に味わうことが出来た。

 「パヴァーヌ」が書かれた当時、1968年頃の人たちは、文明を発達させた挙げ句に生まれた大量破壊兵器によって、明日にも滅亡してしまうのではないかと怯えていた。そんな目に、教会が深い思索のもとに科学の発達を遅らせていた「もしもの世界」はどう写ったか。物語の世界で提示された20世紀の世界では、国どうしの小競り合いはあっても何百万人も死んだ世界大戦は起こらなかった。現実の世界でテクノロジーがもたらした豊かさよりも、架空の世界で教会がもたらした安寧を望む人がいても不思議ではない。

 豊かさか。安寧か。「パヴァーヌ」に示されている可能性のどちらが善でどちらが悪かを判断することは難しい。どちらを求めても自分にとって都合の良い歴史を選んでいるのではないかという懐疑は消えない。日本軍が勝利して喝采する歴史を尊ぶ態度と真意において大きな違いはない。所詮は書き手と読み手のエゴでしかない。

 ただ、歴史の様々な過程において選ばれなかった可能性をシミュレートして得られる架空の姿を、これから作られていく未来に当てはめて、何が最善なのかを思考し続けることだけは忘れてはならない。過ぎ去った歴史は頭のなかでいくら改変したところで、得られる快楽は妄想でしかない。未来は今この瞬間から生み出して行ける。それが良き世界であれば、得られる喜びは真実のものとなるのだから。


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