終わる世界の片隅で、またをする

 たとえ地球の裏側にいる人で、自分とはまったく関わりがなく、会ったことなんてもちろんなかったとしても、そんな人がいて、生きて、暮らして誰かとの関わりを持っていた、なんて話を伝え聞くことによって、僕たちはその人のことを感じ、内心を想像して自分に重ね合わせて共に喜び、悲しみ怒ることができる。

 周辺に記憶され、事物に記録されてさえいれば、その存在は伝わり、その思いは流れ込んで来る。昨日すれ違った誰かでも、1000年前に生きていたお姫さまでも、残された記憶や記録によってその人のことを思い浮かべて理解できる。人間とはそういった共有と共感が可能な生き物なのだ。

 もっとも、存在そのものが忘れ去られてしまって、周囲の誰も記憶すらしていないような状態になってしまっても、わたしたちはその人に共感を覚えることができるのだろうか? 存在したという記録だけあっても、感じた想いや周囲に与えた影響は掴みづらい。それでも存在を共有できるのだろうか? そんな問いかけをくれる物語が、五十嵐雄策による「終わる世界の片隅で、また君に恋をする」(電撃文庫、630円)だ。

 存在の記憶が消えてしまう。周囲から完全の忘却されてしまう。そんな、“忘却病”なる奇病が流行り始めている世界にあって、いつの間にか消えてしまう人たちのために何かしようと、忘却病相談部というものを学校に立ちあげたのがアキという高校生の少年だった。

 アキはいつも保健室にいる少女、桜良先輩といっしょに持ち込まれる相談を受けていた。忘却病にかかって、もうすぐ自分が消えてしまう前にデートしてくださいと頼まれデートをするとか。父親とは早くに離婚して家を出て、母親も亡くなってしまった少女に家族になってくださいと頼まれ、一緒に過ごすとともに父親のことも探して上げるとか。消えてしまった誰かのことを思い出させて下さいと頼まれて、過去にした相談の裏返しのようなことをするとか。そんな活動をしていた。

 昨日まで、というよりほんのさっきまでいっしょにいた人のことがもう、思い出せなくなってしまことだってある忘却病。そこにいたのなら写真だって記録だって残っているだろう、そういった情報から人物像を浮かべて不在を悲しめるだろうといった疑念も浮かぶ。もっとも、存在というものは認識されてこそ意味を持つ。たとえ記録があっても、存在を認識できなければそこに感情は浮かばなくなってしまう。悲しみといった思いも浮かばない。

 これはキツい。残された人たちにではなく忘却される当人にとって。残される人たちは存在が認識できないのだから悲しみようがない。喜ぶこともない。逆に忘却される側は、いずれ自分がそうした状態になってしまうことを知っている。自分という存在がなかったことにされる。それは死ぬことと同様に、というか死ぬこと以上に辛いことのような気がする。

 死んだら当人には悲しみも喜びもあらゆる感情は浮かばない。当たり前だ。そして残された人たちがその不在を嘆く。思いの中に存在を残し続ける。けれども、忘却病は残された人から不在への嘆きを奪ってしまう。そして忘却された側は周囲に認識されない中をしばらくは生きていく。これは心が折れるだろう。だからこそ忘却病相談部に頼んで自分の存在を目一杯、感じてもらおうと足掻くのだ。

 忘却病に罹った人たちが忘却された後、どうなっているかははっきりとは描かれない。収容されたといった話もあるけれど、そういった施設は登場しない。というより忘却されてしまった人に対して、行政はいったい何をどう働きかけられるのか。どこの誰とも分からず、そして永遠に分からないままでいる誰かのために何かをできる行政があるとも思えない。

 だったらどこへ行くのか? そこに突きつけられるある可能性は、逆にいうなら残される人たちが死別などに対して抱く哀しみや苦しみといった感情を薄らげ、無くしてしまうために与えられた恩寵といった見方もできる。愛別離苦という言葉があるくらいに別れは人にとっての苦しみで、それからの解脱を与えるために生まれた奇跡なのかもしれない。でも……。

 それで良いはずがない。苦しくても辛くても、覚えていることが出来るからこそ人は限りある生を目一杯に生きてそして、その存在を別の誰かに覚えてもらおうとする。そんな記憶の連鎖によって、人という存在の文化は育まれ、社会は営まれてきた。その連鎖が断ち切られるのは滅びの時なのか。忘却病に喘ぐ人類にはもしかしたら未来が存在していないのか。いろいろと浮かぶ想像がある。

 そこにひとつ、抜け道のように強烈な記憶なり記録とともに人は忘却された人のことでもふと思い出せることが示されている。ならばまだ死んでないし、死んでもその生を意味のあるものにできる。忘却の彼方に消えてしまった誰への思いを、抱き続けることができる。それは可能か。不可能なのか。人類を待ち受けているのは衰退か。それとも快復か。どちらに向かうのかは見えないけれど、しがみつける部分が残されているのを僥倖ととらえ、誰もが思い出しそして戻って来る日を願いたい。


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