王将たちの謝肉祭


今でこそ羽生善治7冠王の誕生で大いに沸き立っている将棋界だが、わずか10年前の昭和60年前後の時に、今の半分でも将棋界について知っていたり、将棋界に興味を持っていた人がいただろうか。谷川浩治9段が最年少で名人に就位したのも、この前後ではなかったかと思うが、それでも今ほどには、例えばTVのCMに棋士が登場したり、週刊誌のグラビアを棋士が飾るような状況にはほど遠かった。そんな時代の将棋界を舞台にした「王将たちの謝肉祭」(角川書店、1600円)を読む時に、私は作者である内田康夫氏の、将棋への深い愛着を感ぜずにはおかれない。

 昭和60年当時というと、内田氏はようやく作家としての地歩を固め、いよいよベストセラー作家への道を歩み始める時期に当たっていた頃だろう。「浅見光彦」の登場する人気シリーズを抱えて、締め切りや新作の構想に追われているその時に、あえて人気シリーズとは違った作品、本人いわく「冒険作」を世に問うたことからも、氏のなみなみならぬ将棋への想いがうかがわれる。

 重ねていうなら、氏は作品の掉尾に、羽生善治という当時は一介の4段に過ぎなかった棋士を、何ら脈絡もないなかで、実名で作品に登場させている。むろん将棋界では、圧倒的な強さで価値続ける「チャイルドブランド」の1人、羽生善治の名前を知らないものはいなかった。しかしTVの将棋対局を見て、その凄みに圧倒されて、脱稿寸前だった作品に登場させたところに、氏の慧眼が現れているのではないだろうか。慧眼という言葉がいかにもおもねっていると取られるならば、流行作家として今もベストセラー街道を驀進しつづける内田氏の、鋭いマーケッティング能力といいかえてもいい。いずれにしても内田氏の思惑どおり、羽生善治は7冠王を獲得し、将棋界は隆盛を極めているのだから。

 「王将立ちの謝肉祭」は、ある女流棋士が棋戦から帰る列車の中で、1人の男から1枚の封筒を預かる場面から始まる。男は後に死体となって発見され、封筒に書かれた謎の言葉から、女流棋士と、縁台将棋を仕掛けて金を稼ぐ真剣士の父親は、将棋界を巻き込んでの陰謀が企てられているのではないかと推測する。

 一方、真剣士の父親は、ひょんなことから滅法将棋に強い男、江崎秀夫と知り合う。秀夫は父親との勝負に勝つが、金をとらない代わりに自分の父親を探してくれないかと頼む。戦争直後までプロの棋士として将来を嘱望されていた江崎の父親は、連盟との見解の相違から将棋界を去り、家族も捨てて失踪していた。女流棋士と真剣士の父子は、生死も定かでない江崎の父親を捜す手伝いをするようになり、伝を頼って稀代の天才棋士、柾田圭三9段に江崎を伴って会いに行く。

 ストーリーは、優れた才能故に異端児扱いされていた柾田9段の復活劇と重なって、将棋界を分断する新旧勢力の対立の構図を浮き彫りにしていく。ここで最初の殺人事件はストーリーの主題から外れ、柾田9段という人物の魅力や、裕福になったことに反比例するかのように、棋士たちの将棋への情熱に曇りが見え始めていた状況を語ることに、紙数が費やされるようになる。

 また、将棋界に次第にはびこりつつあった、将棋をただ盤上のみのゲームとしてとらえがちな新しい世代に対する危惧も、柾田9段や、その終生のライバルだった大岩泰明9段の口を通して語られる。ミステリーをただ謎の解明のみに当てることなしに、そこにある種の思想なり心情を表現していく手法からも、数年後に登場してくる新本格派とは違った、松本清張氏に始まる社会派の後裔たる内田氏の片鱗が伺われる。

 登場する実在の棋士は羽生善治7冠王だけだが、その他のキャラクターにもみなモデルらしき人物がいる。将棋連盟自体は実在の団体であり、実在のシステムに即してストーリーが組み立てられているため、不勉強な作者では棋士から、あるいは将棋界から相当な反発を受けたことだろう。しかし升田幸三第3代実力制名人をモデルとした柾田9段も、大山康晴15世名人をモデルにした大岩9段も、方法論にこそ差はあれ、ともに将棋をこよなく愛する人物として描かれていて気持ちがいい。

 後に名人を獲得した米長邦雄9段をモデルにした吉永春雄8段は、第2の殺人事件で被害者として殺されてしまうが、これはご愛敬。やはり毀誉褒貶の人生を歩みながらも、「新手一生」を掲げて将棋界に限らず広く愛された升田幸三本人の魅力なくしては、この本は成立し得なかったに違いない。

 本書には、アマチュアとしては滅法強い江崎秀夫が、プロの棋士を相手に試合を挑んで勝ち進む場面が出てくる。10年ほど前だったか、やはりアマチュアの棋士がプロの棋士を次々と破っていった「プロアマ対局」があったと記憶している。その時、アマ棋士の快進撃をくい止めたプロ棋士は、将棋界の貴公子として名高かった真部8段ではなかったか。本書で江崎が最初に破るプロ棋士が、歌舞伎役者を思わせるルックスの青年、真鍋一夫6段。こんなところに内田氏の茶目っ気が出ているようで、おかしい。


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