凹村戦争

 残酷だけと爽快で、怖ろしいけど憧れる。西島大介の「凹村戦争」(早川書房、1300円)に流れる終末のビジョンは、ここより他の場所などない、あったとしてもそこだってここと大差ないんだと気づいてしまった人類の、どこへも行き場を失った閉塞感から来る滅びへの願望を、悲壮感ではなく楽観の中に描いて、読む者の心をくすぐり誘う。

 どこかの盆地にあって、田舎ほど閉じてはおらず郊外ほど開けてもいない「凹村」に暮らす凹沢アルほか若者たちの上にある日、空から謎の”物体X”が落ちてくる。名前のとおりに「X」の形をした物体はけれども、村を破壊することなく佇むだけで凹沢たちの目は刺激しても、暮らしそのものを劇的には変えてくれない。

 やがて流れ星のようなものが村の向こうへと落ち始め、村以外の場所でいろいろなことが起こっているようになっても凹村は相変わらず平穏なまま。やがて村に戦闘機が飛来するようになり、世界が謎の”物体X”に破壊され滅亡への道を進み始めても、凹伴ハジメや凹坂カヨといった凹沢の同級生たちは、村での日々にいそしみ危機を危機として捉えず切り結びもしないでただ、漫然とした生を送り続ける。

 そんな中にあってひとり、凹沢だけは閉塞感と倦怠感に喘ぐ村を出て、刺激にあふれた外へと飛び出したいと願っている。やがてひとり凹村を出て東京へと向かった凹沢の行動力と、凹村にあって凹沢の願望を焚きつける女教師のアグレッシブさを見て、留まり流され続けることを止め、立ち上がり歩き始めるべきだと焦らされる人も出るかもしれない。

 けれどもすぐに気づく。凹沢がたどり着いた先にひろがっていたのは世界の砕け散った様。ノートの片隅に凹沢がしたためた”物体X”と”火星人”の落書きが招いたかもしれない終末。そんな場所にあって凹村と変わらない脳天気さを見せる凹沢に、いくら変化を望もうとも、そして足を踏み出そうとも変化を変化として意識し、相対する覚悟を持たない思考や行動に訪れる変化はないのだということを。

 ならば変化を意識すれば良いのか。危機と斬り結ぶ勇気があれば世界を変えることが出来るのか。なるほど現実の世界はさまざまな危機にあふれていて、さまざまな変化に満ちていて、飛び込むことで自分を変えられそうな気がする。だがしかしそれでもたらされる自分の変化は、あくまでも個人的な変化でしかない。争いは絶えず憎しみは消えないまま世界はひたすらに滅びの時へと向かい、人はそれを押しとどめること適わない。

 ならばどう生きればいいのか。偽りの前向きさを持ち、滅亡から目を背けても凹沢のように脳天気に歩き続け、変化を求め続けるべきなのか。村に残った凹伴や凹坂のように世界を達観し、ひとつ場所に留まる中で今の快楽をむさぼり続けるべきなのか。答えは火星人でも襲来しない限り出せそうもない。そしてそれは起こり得ない。ならば……想い描くより他にない。「凹村戦争」がもたらす終末のビジョンを手がかりに、それぞれが住む「凹村」でのこれからを。

 ある意味でとてつもなくシビアで残酷な物語なのに、西島大介が得意とするころころとしたキャラクターの可愛さと、エッジが効いた線で描かれたシンプルな背景に、物語から醸し出される恐怖感を流され、妙な爽快感を覚えさせられてしまうのが不思議というか役得というか。人によってはもっと漫画的に立体感のあるキャラクターによってこそ、ドラマが引き立つという意見もありまた、劇画調であれば重厚さも増し真実味も恐怖感も増すといった意見もある。その方が一般受けもして商業的に届く範囲が広がるという意見はきわめて正しい。

 一方で商業的に漫画作品を送り出していくことを義務づけられている出版社ではなく、小説のSF叢書の中に1冊漫画を紛れ込ませて世に問うこと、それ自体が既成の小説としてのSFに対して刺激になるといった”運動性”を担わされている観もある「凹村戦争」の場合、あまりに一般的な漫画のキャラクターで遠くへと届かせる必要はないとも言える。

 且つまたイラスト的なキャラクターとシンプルな背景によって表現された画面から浮かぶ、適度な先鋭性と抽象性が、SFの人も漫画の人も共に気を惹き納得と驚嘆を与えられるといった意見も否定し難い。西島大介が現代への問題意識から紡いだ物語を、西島大介が描いた絵で表現したからこその「凹村戦争」の爽快な残酷さなのか。競作によって別の漫画家の違うキャラクターによって同じ世界観が描かれた場合、どういった雰囲気になるのかに興味が及ぶ。


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