吉野朔実劇場
弟の家には本棚がない

 双子の弟がいて、双子なので当然ながら育った環境はまったく同じで、家には結構本とかあふれてて、親も結構本を買ってくれて、なのに弟は本好きにならなかった。勉強机の上にずらりと本が並び、引っぱり込んだスチールラックもたちまち2棹分が本で埋まった兄の部屋の隣にあった弟の部屋には、本はあってもせいぜいが星新一の文庫とか漫画が合わせて20冊といった程度で、もちろん本棚なんてものはなかった。

 別々に住むようになって10年以上が過ぎて、独身のままでいる兄の六畳一間は数千冊の本と積み上がり谷すら埋めて地層を作っている一方、一家を構え家まで建ててそれなりに抱負なスペースを持っている弟の家に、果たして本棚があるかというと「ある」と断言できるだけの確信が持てない。多少なりとも本くらいは読むようになったかもしれないけれど、本好きが認めるだけの本棚があるかと問われれば、どちらかといえばないような気がする。あったら御免。でも2棹はないよな。

 方やとこなた。その違いがどこで生まれたのかは分からないけれど、本が好きになるかならないかで、育った環境は絶対的な理由とはならない、ということだけは言えるだろう。ましてや年齢も性別も異なる姉と弟。本に関する漫画エッセイを「本の雑誌」で描き続けている吉野朔実が、最近の連載をまとめて出したその名もずばりな「弟の家には本棚がない」(本の雑誌社、1300円)の巻末で、「だから弟の家に本棚があるのかないのかは知りません。ほんとはね。でも多分ないと思う。本読んでなさそうだもの」(85ページ)と独断気味に言っていても、それはあまりに見くびった発言じゃない、とは思わない。本好きか本好きじゃないかは人それぞれ。そういうものだ。

 もっとも、吉野朔実の漫画エッセイを読むにつけ、そのあまりの本好きぶりにあるいは弟だってそれなりの本好きであるにもかかわらず、姉の絶対量にくらべて微々たるものにしかならない関係から、眼中より外れてしまっている可能性にも思い至る。とにかく多い。そして幅広い。かつ深い。ホラーの古典からミステリーの最新作まで、純文学の最先端から俳句短歌の類まで、和洋古今の本をとりあげては、本好きだったら生きてきた家庭でいささかなりとも経験しただろうエピソードを絡めて語ってくれていて、思わず「あるある」「そうそう」「うんうん」とうなずき感嘆してしまう。

 例えば「わからないけど面白い」というタイトルの回。漫画家の中川いさみからウラジミール・ソローキンの「愛」が面白いと言われてどこが面白いかと聞いて「わかんないんだよね」と返されて、そんなことあるよね、といった具合に自分の読書経験になぞらえ語っていく流れに妙にうなずける。説明のしようがないけれど、妙に面白い本、というものは現実にあったりするからだ。

 関連するのか次の回に来ている「覚えてないけど面白かった」本というのも言われて納得のエピソード。ここではマイクル・コナリーの「わが心臓の痛み」に関する話をきっかけに打ち合わせをしていた相手からコナリーの小説が面白かったと言われ、それは何だと聞いたものの書名があがってこず自分でも思い出せず、なのにやっぱり面白かったという記憶だけは残っている。

 後日、書名が思い出せても状況は変わらず。時には読んだことすら忘れていて、同じ本を買ってしまって読んでしまって面白いと思って、本棚に入れようとしてそこにすでに1冊あって、面白く読んだことを思い出すこともあるとか。そうなってしまう理由が「歳」だと言われてしまうといささか身に染みるものがあるけれど、面白い本を忘れてしまったことを妙に虚しく思ってせめて深層心理に影響を与えているんだと思おうとする吉野朔実に対して、その時面白かったら良いなじゃない、と思ってしまう自分があったりして、そんな所からのぞく本への思い入れの差に、なるほどさすがは吉野朔実、生半可な本好きではないんだということに感じ入る。なるほどそんな彼女から見れば、1棹程度本棚があったって「本棚がない」のと同じこと、だったりするのかもしれない

 笑えるエピソードは「『酸素男爵』を知りませんか」と「続・酸素男爵」の連続エピソード。G・フィーリイの「酸素男爵」という本を取りあげて、そのタイトルからいったいどんな話なんだろうと妄想していく様が妙におかしい。SF読みにとってはまるで全然意外とはならない、内容もそのままのタイトルだったりするけれど、なるほど字面だけ見ると相当に想像をかきたてられるものらしく、違う角度から物事を見せられているようでハッとさせられる。もちろん妄想の向かった先の突飛さも笑った理由だけど。どう発想を伸ばせば「生まれつき酸素な男爵」となるんだろう。なるのかな。イタロ・カルヴィーノの「木のぼり男爵」とか読んでいれば。

 カズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」を紹介したエピソードの実は全然「私たちが孤児だったころ」を紹介していない展開にも笑い。この項、実はタイトルが「カレーライスとハヤシライス」で、漫画家が果たしてカレーライスとハヤシライスを演出とか、小道具とかを使わずにしっかり描き分けられるのか、という命題から筆を起こした内容となっていて、カズオ・イシグロは「それはさておき」という言葉とともにたった1コマで言及されている。もちろん内容への言及はない。

 ただし「赤毛のアン」と「少女パレアナ」に関する説明は十分以上にあって、それらが「11歳の女の子」が登場して「どっちも孤児」で「どっちもおさげ」で「どっちもそばかす」の話だということが伝わって来る。どういう脈絡かといえばそれが「カレーライスとハヤシライス」。つまりは「アン」と「パレアナ」の表紙を同時に同じ文庫で描くことになった吉野朔実が、果たしてどうやって2人を描き分けるべきなのかを悩んでいるのである。実際にどう描き分けられたのかは不明。今度本屋で確かめてみよう。タイトルを隠してどっちがどっちかを人に訊ねてみるのも面白いかな。


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