オカルトゼネコン富田林組  オカルトゼネコン火の島

 近代的なビルの屋上に神社が建てられていたり、オフィスに神棚が祀られていたりするのはなぜなのか。新しく建物を建てようとするときに、神主や僧侶を呼んで地鎮祭を行うのはどうしてなのか。東京でも屈指のオフィス街である大手町に、今なお敷地を要して平将門を祀った神社が存在しているその訳は。

 伝統とも言うし、信仰とも言う。人によってはオカルトとも、迷信とも言って毛嫌いし排除に向かいかねない、科学的な厳密さとはかけ離れたそうした状況が、今もなお継続しているのには、おそらくきっと訳がある。

 その訳が、具体的にどういったものなのかは、この際あまり意味を持たない。長い年月を経て積み重ねられてきた“なにか”がある。それだけで十分だ。まったくなにもなければ、人は神社を置き神棚を祀り地鎮祭を執り行っては来なかった。なにかがあたからこそそうした状況が生まれたのだ。

 それならば、今さら逆らう必用などない。逆らってなにかが起こってしまったら一大事。従っていたから起こらなかったというこれまでの経験を、大事にして引き継ぎ伝えていけば良い。それが人間の賢さというものだ。

 とはいえ世間は広く、経験が通じない国があり、人たちがいる。その結果、起こってしまう“なにか”のために存在するのが、ゼネコンの富田林組の中にある調査部という組織。そこに採用された田中たもつという青年が出会う“なにか”を描いた小説が、蒲原二郎の「オカルトゼネコン富田林組」(産業編集センター、1200円)だ。

 Fランクの大学を出たにも関わらず、世間的には知られたゼネコンの富田林組に田中たもつが採用されたのは、調査部に配属される要員としてだった。不思議とは思いながらも、せっかく採用されたのだからと頑張っていた田中たもつ。ところが調査部は、資料を整理するような温い仕事ではなく、科学では解明できない“なにか”に対処するために作られた危険きわまりない部署で、新人の田中たもつは、半ば人身御供のような立場で、山間部に起こる怪異にひとり挑まされる。

 ギャグもたっぷりの文体で、明るく、そして軽く田中たもつの苦闘を描いて笑わせつつ、古からの言い伝えをおろそかにしない大切さというものを、じんわりと感じさせてくれる。無名の作家のデビュー作ならが、これが結構な数の支持を集めたのも、日本人の心に経験から根付く“なにか”への畏怖があって、けれどもそれが近代化の中でないがしろにされている状況への不安があったから、かもしれない。

 そんな第一弾の好評を受けて登場した、蒲原二郎の第二弾「オカルトゼネコン火の島」(産業編集センター、1200円)は、舞台を太平洋上に浮かぶ硫黄島ならぬ鬼王島へと移し、そこで暴れ始めた火の神様との苦闘を描こうとしたものだが、そうした対決の描写よりも、重点がおかれたのが、鬼王島の悲しい歴史を背景とした出会いと別れの物語だ。

 太平洋戦争でもサイパン島、沖縄と並ぶ激戦の地、硫黄島をモデルにしているだけあって、鬼王島はかつて太平洋戦争で米軍との激戦が繰り広げられた歴史があった。そこで大勢の日本兵が戦死し、あるいは地下壕の中で焼かれて死んでいった。兵士だけでなく島にいた民間人もことごとくが死亡。その痛ましい歴史を経て、鬼王島は民間人がいない、日本の自A隊と米軍とが監理する軍事拠点になっている。

 だからこそ、火の神様の怒りで島が使えなくなることを懸念した日本政府が送り込んだ富田林組の田中たもつ。コンクリートに関する権威でありながらも、アンドーナツばかりを食べるおねえ言葉のアンドーさんからゴミクズ扱いされながら、日々山に入って鎮護ドームの建設に勤しむ。その過程で、島で死んだ兵士の霊を感じ、のみならず目撃し、果ては交流を図るようになる。

 一方で、厳しい仕事をした帰り道、平らになった場所から海を眺める少女と知り合いになる。桜ちゃんという名の看護婦で、優しい表情や言葉に、厳しい日々をくぐり抜ける希望が開けたものの、肝心の仕事では、火の神の怒りを鎮めることが難しく、一行は遂に撤退を余儀なくされ、そして最後の説得のために田中たもつだけが、「グスコーブドリの伝記」よろしく島に取り残される。

 もはや絶体絶命となったその時。水をあげ本を読ませご飯をお供えしてあげた兵士たちの霊が浮かんできて、田中たもつを窮地から救う。そして桜ちゃんまでも……。つまりはそういう物語で、生きたくて、ずっと生きていたくって、決して死にたくなんてなくて、それでも死んでいかざるを得なかった若い人たちの無念が胸に響いてきて、目に涙をにじませる。

 過剰なまでに繰り出されるギャグの中に浮かぶ、ヘビーでシリアスなエピソード。深刻になればどこまでも深刻になっていくところを、お調子者で空気が読めない田中君の上滑り気味な言動が、重たさへの果てしないスパイラルを防ぎつつ、過去のシリアスで切ないエピソードをくっきりと浮かび上がらせ、するりと心に感じさせて泣かせる。

 意図的なのか、それとも天然の筆運びなのかは分からないが、結果として滲み出して来る過去への敬意、自然への畏怖は、未来が見えない中でせっぱ詰まって焦り始めた日本人が、効率化の中で忘れてしまいそうになっている重要なことを、このタイミングで思い出させてくれる。

 そんな目配りの良さと、そして深いテーマにさくっと切り込む強靱さで、これからもいろいろ書いていってくれそう。2作目にしてさらに進化した蒲原二郎だけに、ここからさらなる大化けもあるかもしれない。次に書かれるのは「オカルトゼネコン」の続編なのか、まったく新しい内容の物なのか。いずれにしても楽しみなことだけは間違いない


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