大山康晴の晩節

 A級在籍45年。この一言だけけで、将棋の大山康晴15世名人がどれだけ偉大だったかは充分に言い表せる。63歳で名人位に挑戦した、ということもなるほどものすごい記録だが、これもA級に在籍していたからこその結果に過ぎない。69歳で没するまで、それもガンによる手術と闘病を経験して1年の休場を余儀なくされてなおA級に残り続けた、その事実をもって大山康晴の不世出ぶりは他の棋士の追随をまるで許さないものだと分かる。

 どうしてそれだけで分かるのだ、という棋界以外の疑問の声もあるだろう。説明すれば将棋界には、C級2組からC級1組、B級2組、B級1組と下から順にランクがあって、それぞれに10数局の対局を行って勝ち星で他を上回って、上へのランクへと進んでいく「順位戦」というシステムがある。上がれるのは2人から級によっては3人。順調に行っても最上位のA級に上がるには4年が必要で、しかもほとんどが1年での昇格を果たすことができない。あの羽生善治ですら下の級で揉まれて足踏みをした程で、そうした切磋琢磨を経て上がったA級の棋士たちと、その上に立つ名人がどれほどの存在かは言うまでもないだろう。

 なおかつA級に居続けることは難しい。中原誠と米長邦雄。将棋を少しでもかじったことのある人なら聞き覚えのあるこの2人ですらA級にとどまれなかった。河口俊彦は「大山康晴の晩節」(飛鳥新社、1600円)でこう書く。「中原、米長は、江戸時代の天才を含めて歴代十傑に入る大棋士だが、それと比べると大山の強さがはっきりする」(21ページ)。中原誠は大山の18期に次ぐ名人位の在位記録を持つ棋士だが51歳でA級から落ち2年後、順位戦を戦わず従って名人位に挑戦も不可能なフリークラスに転出した。米長も54歳でA級から落ちてそのままフリークラスへと転出した。

 しかし大山は「五十歳から六十歳になるまで、A級から落ちそうな気配はまたくなかった」(21ページ)。それどころか68歳となる平成3年度の順位戦で6勝3敗の成績をあげて4人が並んだ名人挑戦者決定戦へと駒を進めた。なおかつその年度、大山は再発したガンの手術で入院までしているのである。こう聞けばA級在籍45年という実績の持つ価値も分かるだろうし、だからこそ河口俊彦も評伝「大山康晴の晩節」を書く上で、この実績をことさらに挙げて中原や米長やほかの棋士たちと、大山との違いを際だたせようとしたのだろう。

 ならばなぜ大山はこれほどまでに強かったのか、といった部分で河口は将棋の質とともに大山が常に示し続けた、2番手を叩き盤上のみならず盤外でも威圧する態度を幾つも挙げる。「神武以来の天才」と騒がれ今なおA級昇格の最年少記録を持つ加藤一二三を初めての名人挑戦で4連敗させ、以後カモにし続けた。二上達也も王将に挑戦した時に2勝したあと4連敗して奪取に失敗。噂として棋界の長老が「大山が気の毒だから1番負けてくれ」と二上に頼んで手を緩めさせたものの大山は1番勝った後も負けることなどせず、というより最初から密約などに関係なく、勝てる将棋を勝って王将位を守ったという話が伝わっている。ここでの足踏みが二上を後々まで大山の下にした。

 日本将棋連盟で会長だった大山の下に二上が理事として入っても「大山はことさら二上を軽んじるようなそぶりを見せ続けた。それも、二上を対局で負かす手段の一つだったのである」(49ページ)。かくも勝負に冷徹であり続けた理由を河口は大山の出征直前の対局にあったのではと見る。出征のはなむけで昇段させても良いところを大山が拒否したか、誰も言い出さなかったかで特進はならず、かわって昇段規定に連勝すれば達する4番を出征前に慌ただしく差すことになった。

 だが、ここで当時の常識なら対局相手は出征兵士へのはなむけと負けるところを、1人大山に勝ってしまった棋士がいて、昇段が果たせなかった。「負けてくれるだろう、などという甘い考えは、将棋に於いては禁物なこと、そして、自分が棋界内部で好かれていないことなどを思い知った。五十歳までの勝負の場での大山の冷酷な感じは、この敗戦があったからだと思う」(73ページ)と河口は想像をめぐらせる。ガンの再発した平成3年度、入院・手術を目前に対局の日程を前倒しした小林健二との対局で、大山相手に我を通せなかった小林が負けたのも大山が勝ったのも何とはなしに分かる。勝負は差す前からついていたのだ。

 自身、7段のプロ棋士として活動し、多くの棋士たちを間近で見続けて来た河口俊彦だからこそ知り、また書ける大山康晴の歴史なり評判なり人となりは、過去あまたある大山に関する文章のどれをもしのいで面白い。プロの棋士ならではの差し回しへの言及も深くて詳細で、盤上での大山のすごみもあますところなく伝えている。

 対局相手が投了後に検討を行わず退出してしまった後、残された大山がひとり盤面を見おろして感想を聞いて来た時、プロ棋士になる前で記録係をしていた河口青年は大山の誘いを避けて空返事でごまかした。そこで応じて盤を挟める気概があれば、もう少し上へと行けたのではと振り返る言葉は自戒として多くの棋士への、あるいはすべての人間への生きる上での参考になる。と同時に常に真剣だった大山という人物の姿も伝えている。

 何年か前、ある新聞がその顔の似具合と将棋の強さを引き合いにして「大山康晴の再来」と持ち上げた棋士がいた。棋士といっても当時はプロと呼ばれる4段になる前の奨励会員で、話題としては面白くても現実的には持ち上げの度が過ぎると首を傾げた。45年間のA級在籍を記録として残したまま逝った大山を思って持ち上げられるのは50年早いと憤った。これで有頂天になった奨励会員が潰れあるいはやっかんだ他の棋士から潰されはしないかと心配になった。

 幸いにしてその少年、渡辺明は4段になってプロとなり、平成14年度の順位戦で見事にC級2組の大混戦から抜けだしA級へと1歩、近づいた。しかし先はまだ遠く、仮に順調にA級に上がったとしてもそこに居続けられる保証はまるでない。どこかの新聞がふたたび渡辺明が「大山の再来」と持ち上げられたとしても、やっぱり50年早いと憤るだろう。いや、河口俊彦の「大山康晴の晩節」を読み終えた今、100年早いと断じる方が適切かもしれない。大山の実績を前に、渡辺明はまだなにもしていないに等しいのだから。

 中原も米長も加藤も二上も越えられなかった大山脈。可能性があるとしたら平成15年5月20日に森内俊之名人を4連勝で破り、7期ぶり4度目の名人位を獲得した羽生善治くらいだが、その羽生ですらA級在籍の記録で大山に追いつくまでに数十年が必要。そしてその瞬間を大山より13年遅れて生まれた河口俊彦はおそらく見ることはないだろう。かつ今大山の晩節をリアルタイムで知る年代の全員が生きてその瞬間に立ち会える訳ではない。だいいち羽生が中原、米長の轍を踏まないという保証はまるでない。すでに成し遂げた大山康晴の偉大さを、だから今は永遠と言おう。


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