Nyusin
入神


 怪童丸とあだ名され、終盤の読みの正確さから「終盤は村山に聞け」とプロ棋士たちからも尊敬された村山聖(さとし)8段(当時)が、復帰したA級順位戦を欠場して療養に入ったと聞いた時、いつもの体調不良だろうとくらいに思い遠からず復帰して、羽生善治と、佐藤康光と、若手中堅ベテランを含む棋士たちと熱戦を繰り広げてくれるだろうと期待していた。

 それが98年8月、かねてより入院中だった村山がガンにより死去したとの報に接し、29歳という年齢もさることならが、名人竜王の位すらお世辞抜きで狙えた稀有の才が、永遠に失われてしまったことへの愕然とする思いにひとしきり涙し、激しく悔いた。漫然と生きている自分がいて、命を削って名棋譜を残した棋士がいて、もしも将棋の神様がいるとしたら実に不公平な神様だとなじる気持が強く浮かんだ。

 それすらも神様の愛だったのかもしれないと、今にして思えないこともないけれど、だったら村山以上に将棋の神様に愛されているように見える羽生4冠王が、今も第1線で活躍を続けているのは腑に落ちない。史上初の7大タイトル制覇を成し遂げ、来世紀に前世紀の将棋の歴史を語った時、大山康晴、枡田幸三、中原誠らと並んで必ず名前が出るであろう羽生はしかし、人間としての最高を極めた棋士でしかなく、身を削りすべての娯楽を忌避して将棋1本に打ち込んだ村山こそが、唯一神と対話できた棋士であり、愛によって召されたのだと思うより他に早過ぎる死は納得できない。

 あるいは天才モーツァルトに偉才ベートーベンの音楽家2人にも準(なぞ)えられる、人智を超えた才能の存在に挑んだのが、「匣の中の失楽」ほか数々の傑作にカルト的な人気を持つミステリー作家の竹本健治が、憧れつつも選ばなかったマンガの道に21年ぶりに立ち返り描いた「入神」(南雲堂、905円)だ。小説シリーズの主人公も務める囲碁棋士・牧場智久は、IQ208の天才少年として14歳でプロ棋士の道へ。トントン拍子に出世して17歳で3大タイトルの1つで格式の高い「本因坊」のタイトルを獲得したが、天才と謳われた牧場をしても及ばない碁を打つ少年・桃井雅美が登場し、2人は終生のライバルとなって激しい戦いを繰り広げる。

 小説シリーズはこうした一連の関係に事件が絡んだミステリー仕立てとなっているが、初のマンガ単行本では事件は一切起きず、桃井の碁に魅せられ打ちのめされた牧場が、囲碁の宇宙を身に感じ、立ち直っていく様が幾つもの対局を介して描かれる。激しい集中と目まぐるしい思考の果てに、脳が焼け付いたのか鼻から血を流しながらも定石にない人智の及ばない妙手を連発して勝ち続ける牧場。自分と、盤と、石だけの境地で打ち続けるその対局は、相手をして「彼は碁の神様と打っている」と言わしめる。

 若くしてタイトルホルダーを獲得し、破竹の勢いで勝ち進む牧場に将棋の羽生と並ぶ天才を見るのは至極ストレートな思考だろう。けれども桃井との戦いの中で、決して牧場は神の域へと達した天才ではなく、100を知る神の1へ、2へと僅かづつでも迫ろうとあがく人間に過ぎないというということが暴かれる。脳の力の200パーセントを駆使したところで、しょせんは人智の及ぶ範囲でしかない。対するに桃井の繰り出す妙手の数々は、人間の思考を超えた本能か、あるいはは予言の発露とすら思えるほどに素晴らしく、牧場をたびたび窮地へと追い込む。

 究極の人間と気まぐれな神との戦いの結末。それは本書を読んでもらうとして、勝負の行方にこだわらず神の姿を追い求め、裾を掴みつつも振り向いてされもらえない牧場の報われない姿に、滑稽だけれど笑い飛ばせない、悲しいけれども同時に羨ましい複雑な感情を覚える。神が相手だからといって決して投げない牧場の姿に、たとえ永遠に地面をはい回りながらも上を向き、空に向かって羽ばたこうと努力を止めな人類の力の源を見た思いがする。

 星の数ほどいるプロのマンガ家に及ばない画力であり、ミステリー界、マンガ界から集まった大勢の手伝いが思い思いに描いたがためにバラバラな印象が絵にはある。けれども小説書きとして練り上げた人類と神とのかかわり合いをも包含する壮大な物語は、画力を補いキャラクターたちに魂を吹き込み、生き生きとした印象を醸し出す。将棋をテーマにした数あるマンガも「ヒカルの碁」でにわかに注目されて来た碁のマンガも越えて、本格にして王道を行く囲碁マンガとして後世に読みつがれるべき作品だ。

 膨大な労力をかけて挑んだ本業でもないマンガ作品に次があるとは思えない。それでもモデルにしたという村山9段(没後に贈)にならって桃井をも神の元へと送り出すような真似は、悲しくなるから絶対に止めて頂きたい。もっともそれ以前の対局中にコミケに出すマンガを書く無頼ぶりに、追放されてしまうかもれいないけれど。


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