Nurse
ナース

 男所帯の紅一点なり単独なり、2人組なり徒党を組むなりと形態こそさまざまながら、戦う女性を主人公にしたアニメやマンガや特撮が日本では山と作られて来た。その成立過程と特異性については斎藤環の労作「戦闘美少女の精神分析」なり、竹書房の人気シリーズ「アニメヒロイン大全集」なりを見て頂くとして、ざっと振り返ってみると、20世紀の初頭より「戦う女性」の代表格へと躍りでたナースという職業を取り入れた「戦闘美少女物」が、意外と少ないことに気づく。

 記録と記憶に真っ先に浮かぶのが、1966年に放映された「レインボー戦隊ロビン」の女性型ロボット・リリで、ナースキャップに描かれた鮮やかな赤十字が「戦う看護婦」のビジュアルを鮮烈に植えつけた、ように思う。物語の中でリリが武器なり体術なりを駆使して「戦って」いたかどうかは、映像としての記憶がないため実ははっきりとしないのだが。

 その次に浮かぶのが、一気に30年近く下った95年に登場の「ナースエンジェルりりかSOS」だったりする辺りが意外さの原因だ。「宇宙戦艦ヤマト」の森雪が看護婦の格好をしていた記憶もあるが決して専業ではなく、またナースとして戦ってもいないため例にはそぐわない。あるいは数ある「戦隊物」の紅一点にナースがいた可能性もあるが、同様に看護婦のスタイルを前面に出し戦っている訳ではないので除外すべきだろう。

 日本に独特の発展を遂げた「戦闘美少女物」にどうしてナースが少ないのか。理由は定かではないが、考えるとしたらおそらくは、ナースがあまりに「戦う女性」であり過ぎるために、戦闘美少女とした時に良く言えばはまり過ぎ、悪く言えばあからさまな印象を見る人に与えてしまうからではないだろうか。

 「りりかSOS」が登場できたのは、「セーラームーン」以後の「戦闘美少女バブル」で受け手の感覚が麻痺していた上に、「あまりに」「あからさま」なことが似合ってしまう秋元康という企画者のパーソナリティーも勘案されてのことだろう。大地丙太郎の演出を得て、「りりか」という少女の我が身と地球を天秤にかけて激しく揺れる気持ちを描き、アニメは名作として終えることが出来たが、一歩間違えれば冗談にしかならなかった可能性もあった。

 その論で見るなら、一歩間違えれば冗談にしかならないところを、ナースの”ナースらしさ”を前面に打ち立てることで強行突破しようとした作品が、山田正紀の「ナース」(角川春樹事務所、571円)だと言えそうだ。自らのナースという職業に対する強い使命感を持ち、患者を守るためにはその身を投げ出しても厭わないナースの本能を絶対の土台に据えることで、斜に見て冗談だと感じるような思考をする隙を読者に与えない。

 山奥に墜落したジャンボジェット機の乗員を救出するために派遣された7人のナースを待ち受けていたのは、バラバラになっても蠢く遺体だった。逸れでもナースたちは臆することなく「遺体を遺族に返す」という使命に燃えて、世界を暗黒に引きずり込もうとしている謎めいた存在との戦いに自らを投じる。「”世界”が病気になったらどうすかって? 決まってる。”世界”も治してやればいい」と言って。

 どんな患者にも動じることなく慈愛に満ちた態度で接する婦長、口は悪いが行動力抜群の”軍曹”に化粧は派手だが仕事は気を抜かず腕前も良い元ヤンキー、背が高く体力に長けた”おっ母さん”等々、さまざまな個性をメンバーに振り分けてチームプレイで敵と戦わせる手法は、「戦隊物」によくあるパターンだと言える。だが、決して超人的ではない、ナースとして一般的に習得している技術なり、保有している知力なり体力を発揮させて事に当たらせている点で、無理な飛躍が醸し出す笑いを読者にもよおさせない。

 崩れ落ち、寸断され、汁を垂らして腐敗していく死体が死体として蠢動し、躍動する描写の臭いすら漂って来るようなリアルさ、そうした状況にナースが置かれたとしたら果たしてどういった思考なり行動をするのかというシミュレーションの綿密さには、やはり感嘆せざるを得ない。作家的創造力のこれが凄さというべきか。

 それより何より、ありそうでなかった「ナース戦隊物」を、ギャグにもコメディにもすることなく、ナースという職業倫理への徹底的な奉仕の気持ちよさを感じさせ、無意味な「死」の前哨戦に過ぎない「生」に果たして意味があるのかという人間に普遍の哲学的な問いを投げかけ、あれやこれやと思考させる小説に仕立て上げた著者のアクロバティックな筆の冴えにただ驚く。惜しみない賛辞を贈ろう。


積ん読パラダイスへ戻る